あさが来た|桐山照史の栄三郎のモデル広岡正秋の今後や家族、子孫

 

朝ドラ『あさが来た』では加野屋の正吉(近藤正臣)が引退して、

栄三郎(桐山照史)が家督を継ぐことになります。

 

この頃には栄三郎はすっかり大人になっており、キャストも吉田八起くんから

桐山照史さんに代わっています。

 

今後の加野屋の経営は、あさ(波瑠)、新次郎(玉木宏)、栄三郎の合議制で

おこなわれることになりますが、新当主の栄三郎も重要な役割を果たします

 

ところでこの栄三郎のモデルは、広岡浅子の義弟の広岡正秋

(9代目広岡久右衛門)です。

 

以前、広岡正秋についてはざっくりと取り上げましたが、

今後や家族、子孫などについてご紹介したいと思います。

 

コンテンツ

栄三郎のモデルの広岡正秋の今後は?

 

スポンサードリンク

 

加島屋の9代目の当主だった広岡正秋が家督を継いだのは、

1869年(明治2年)のこと。

 

広岡正秋

(広岡正秋)

 

明治時代に入りすぐに8代目が亡くなってしまい、

加島屋の経営は当時26歳の正秋に託されました。

 

もちろん、広岡浅子も正秋とともに加島屋の経営に参加しますが、

このあたりはドラマと史実で大きく異なります。

 

ドラマでは1873年(明治6年)に加野屋の家督を継いで経営に参加する栄三郎ですが、

史実では当初から浅子とともに加島屋の経営をおこない

ともに苦悩した仲です。

 

正秋は温厚で実直な性格だったと言われ、兄の信五郎(新次郎のモデル)とともに、

兄嫁の浅子のアイデアを次々と採用。

 

当時は女性がお家の経営に口を出すのも異例でしたが、正秋や信五郎が

浅子の意見を尊重したことにより実業家・広岡浅子の活躍があったのです。

 

浅子の炭鉱事業への参入のアイデアが大当たりして、加島屋は銀行経営に乗り出すと、

正秋は加島銀行の初代頭取に就任しています。

 

また生命保険業にも乗り出し、朝日生命、護国生命、北海生命の

3株式会社が合併し大同生命が誕生しますが、その初代社長に就いたのも

正秋です。

 

さらにこの頃、加島屋は紡績業にも進出しており、

多角経営で利益を挙げていましたが、

その中心となったのは正秋と浅子でした。

 

このように正秋は浅子にとっていなければならない人物でしたし、

浅子が広く女性実業家の先駆けとして知られるようになったのも、

正秋や信五郎のサポートがあったからです。

 

また正秋は為替会社や通商会社の頭取なども歴任、

また堂島米穀取引所の理事なども務めました。

 

これらはドラマで五代才助(後の友厚)が言っていた、

大阪カンパニー構想です。

 

つまり正秋は当初から五代と交流があり、大阪カンパニー構想にも

参加していたことが窺われます。

 

さらに浅子が日本女子大学を設立する際には、多額の資金も提供。

 

浅子の甥の三井高景(久太郎のモデル)とともに、

日本初の女子大の設立にも尽力しています。

 

広岡正秋の家族や子孫は?

 

スポンサードリンク

 

広岡正秋はなつという女性と結婚して、郁子という娘を授かります。

 

跡取りとなる息子に恵まれなかったため、郁子の夫の正直を婿養子にとって、

この人物が10代目広岡久右衛門となります。

 

広岡浅子の夫で正秋の兄の信五郎は分家の養子に出ていたことから、

こちらが広岡家の本家となりますね。

 

そして、この正直が大同生命の3代目の社長になります。

 

その後正直は、茨木カンツリー倶楽部を創設したり、日本ゴルフ協会の理事を務めて、

1978年(昭和53年)に88歳で亡くなっています。

 

正秋の義理の息子の正直さんは、ゴルフにも造詣が深かったのですね~

 

ちなみに2015年の11月に奈良県で加島屋や広岡浅子の手紙や資料が

1万点も発見されましたが、この正直の娘が太平洋戦争末期の疎開の際に、

持ち出したと言われています。

 

このように正秋の子孫もしっかりと浅子や正秋の遺志を継いだようですね~

 

現時点では栄三郎は経営者としても当主としても経験不足は否めません。

 

しかし正秋の史実上の実績に鑑みれば、ドラマの栄三郎も実業家として

大きく成長することが予想されます。

 

このあたりもドラマの大きな見どころのひとつだと思います。

 

朝ドラ『あさが来た』でも、正秋がモデルとなっている

栄三郎の今後の活躍に注目です!!

 

送料無料の情報が満載!ネットで買うなら楽天市場
スポンサードリンク

 

コメントを残す

サブコンテンツ

このページの先頭へ