まんぷく|福子と萬平の結婚と安藤百福と仁子の結婚の違い

 

朝ドラ『まんぷく』では、ヒロインの福子と萬平は結婚することになります。

 

福子は萬平に告白されて結婚前提の交際に至ったものの、姉の咲が結核で亡くなったり、さらには萬平が軍需物資横領容疑で憲兵隊に拘束されるなどの災難でなかなかふたりの交際は進展しません。

 

とは言え、ふたりの結婚はドラマでも既定路線となっています。

 

ここでは福子と萬平の結婚までの経緯を、モデルの安藤百福と仁子の結婚との違いを交えてご紹介しておきます。

 

 

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福子と萬平の結婚と安藤百福と仁子の結婚の違い

 

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まずドラマでは昭和16年(1941年)の末頃に福子と萬平の交際がはじまっています。

 

そして翌年の夏には福子の姉の咲が亡くなったばかりか、萬平までもが憲兵隊に拘束されてしまいます。

 

他の記事でもご紹介しましたがこれは共同経営者の加地谷と憲兵隊の村城が仕組んだ罠です。

 

萬平は無実の罪で殴る蹴るの拷問を受けますが、そんな彼を救うのが福子です。

 

彼女は大阪商工会の会長の三田村亮蔵に直談判して、三田村の手配で元陸軍大将の神宮幸之助が出馬してようやく萬平も解放されます。

 

またその後に福子は拷問によって寝たきりとなっていた萬平を介抱して、これら一連の出来事によりふたりの距離は急激に縮まって、結婚を約束します。

 

最後の関門となるのが福子の母親の鈴でしたが、ふたりの不退転の決意を前に、不承不承結婚を認めることになります。

 

どうやらふたりが結婚するのは昭和17年(1942年)のことで、結婚式は福子の勤務先の大阪東洋ホテルで、縁のある人々たちとともにつましく執り行われることになります。

 

ドラマでは福子と萬平の結婚はこのような流れとなりますが、リアルの安藤百福と仁子に関してはだいぶ違いました

 

萬平のモデルの安藤百福と福子のモデルの仁子が出会うのは昭和19年(1944年)のことです。

 

ふたりの出会うきっかけとなったのは、百福が無実の罪で憲兵隊に拘束されたところを救出してくれた井上安正元陸軍中将の計らいです。

 

百福の憲兵隊から解放後に、井上元中将は身を固めることを勧めて、京都の都ホテルのフロント係をしていた安藤仁子を紹介します。

 

ドラマでは福子が萬平の憲兵隊からの解放に大きな役割を担いますが、史実の仁子はこれに一切タッチしていません

 

仁子は男性との初交際で、百福の押しの強さもあって、ふたりは昭和20年(1945年)321日に仁子の勤務先だった都ホテルで結婚します。

 

ただしふたりの結婚に際しては問題もありました。

 

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当時の百福は既婚者で、台湾に2人の妻と4人の子供がいました。

 

1夫人の呉黄梅との間には一男(後の安藤宏寿)がおり、第2夫人(妾)の呉金鶯との間には二男一女がいました(ただし、第2夫人とは仁子との結婚の頃には離婚していた)

 

そのため仁子との結婚が「重婚」にならないように、呉黄梅を第2夫人(妾)にすることで問題を解決しています。

 

加えて仁子の家系は福島県の二本松神社の神職がルーツの名家です。

 

そして当時の百福は台湾国籍で、日本の植民地であった台湾の人々は「二等国民」などと見下された時代です。

 

なぜ名家の出身の仁子が台湾人の百福と結婚したかに関しては本人たちしか知り得ないところですが、百福が裕福な実業家であったことや(逆に安藤家は経済的にかなり窮乏していた)、既に仁子が28歳になっていた(当時の結婚適齢期を大幅に超えていた)ことなどが意見として挙げられています。

 

また百福は結婚に際しては仕事を優先して、家庭を顧みないことを念押ししています。

 

このようにリアルの百福と仁子の結婚は、ドラマの福子と萬平のそれとはかなりの違いがありました。

 

とは言え、末永くふたりが仲睦まじかったことや百福の様々な事業を仁子が支えたのは事実です。

 

ドラマを楽しむ上での一助となれば幸いです♪

 

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