わろてんか|北村笑店の解散は実話なの?吉本興業はどうだった?

 

 朝ドラ『わろてんか』では、いよいよドラマでも太平洋戦争に突入してしまいます。

 

明治時代や大正時代からスタートする朝ドラは避けては通れないのが、

この太平洋戦争です。

 

特に末期には国民生活の統制や食糧難、そして都市部ではアメリカ軍の空襲が

描かれるなど、非常に暗い時代に突入します。

 

そして今作でも昭和20年(1945年)に突入すると、もはや制空権はアメリカ軍の

手中にあるので、大阪の街も正月早々空襲がおこなわれるようになります。

 

既に北村笑店では若い芸人や社員たちは出征しており、残りはわずかとなっています。

 

また南地風鳥亭が建物疎開によって取り壊されるなど、経営する寄席の数も

わずか4軒となってしまいます。

 

そんな中、てんと風太は寄席の安全な経営ができなくなったことを理由に、

北村笑店を解散することにします。

 

そのため一時金を支払って所属芸人たちとの専属契約を解消し、みなは

バラバラになってしまいます。

 

大阪の街に笑いの一大王国を築いた北村笑店でしたが、遂にその終焉を迎える

ようですね…

 

このあたりは非常に残念なエピソードですが、そもそもモデルとなっている

吉本興業部はこのタイミングで解散していたのでしょうか?

 

 

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北村笑店の解散は実話なの?吉本興業はどうだった?

 

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北村笑店のモデルの吉本興業部も、太平洋戦争末期には事実上の休業状態

追い込まれています。

 

まず昭和19年(1944年)4月に閣議で決選非常措置要綱が決定され、その中で

「高級享楽の停止」が定められます。

 

これによって劇場や高級ホテル、高級料亭などが休業に追い込まれますが、

吉本興業部の比較的大規模の大阪花月、南地花月、新世界南陽演舞場が

これに抵触して休業となります。

 

そして昭和20年には3月から大阪大空襲がおこなわれたことから、もはや

寄席の営業は事実上不可能になっています。

 

しかしそんな中でも、吉本興業部は解散はしていません

 

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当時は既に敗戦色は濃厚でしたから、吉本せいや林正之助ら幹部も、終戦後の

営業再開を視野に入れていたと思われます。

 

しかし戦後になると吉本興業部は演芸部を解散して、花菱アチャコ以外の芸人を

解雇しています。

 

終戦直後は寄席の経営の再開を目指して興行をおこなっていますが、

客入りも芳しくありませんでした。

 

またほとんどの寄席は空襲によるダメージを受けており、資材不足によって

再建もままなりませんでした。

 

また当時は映画館の収益が急伸しており、時代は演芸から映画へとシフトしていました。

 

そんな状況を斟酌して林正之助や吉本せいは、演芸の復興や寄席の経営から

手を引く決断をしています。

 

その際にはドラマのように一時金を支給したのではなく(当時はお金がなかった)、

借金の帳消しが条件でした。

 

ただしそれでも吉本興業部自体が解散したわけではなく、あくまで演芸部のみの

解散です。

 

以降の吉本は進駐軍専門のキャバレーや映画館の経営に乗り出しており、

要は業種転換といったところです。

 

ドラマでは戦争末期に北村笑店自体を解散していますから、このあたりは

史実と異なるところです。

 

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