わろてんか|北村笑店の東京進出は実話!史実はどうだった?

 

 朝ドラ『わろてんか』では舞台は大正12年(1923年)に移って、

北村笑店は大阪の演芸界を席巻するほどの存在となっています。

 

そして次なる目標を東京進出と定め、その足掛かりとして万丈目の

夫婦漫才のコンビを東京の寄席に送ることになります。

 

いつの間にかBIGになっている北村笑店は首都圏への進出を窺って

いますが、このあたりはモデルとなっている吉本興業部の東京進出の

実話が下敷きになっています。

 

このあたりをご紹介していきます。

 

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北村笑店の東京進出は実話!史実はどうだった?

 

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吉本興業部が首都圏に進出したのは大正11年(1922年)の頃です。

 

この頃の吉本は上方落語界のスーパースターの初代桂春団治を専属とし、

対立していた三友派の落語家たちや吸収した浪速落語反対派の芸人たち

を傘下に置く一大興行会社へと成長していました。

 

大阪には大八会という別勢力も存在しましたが脅威になるような

規模ではなく、もはや吉本にとっては成長を求めるならば首都圏

矛先を向けざるを得ない状況だったのです。

 

そんな中、大正10年(1921年)に経営不振に陥っていた神田神保町の

寄席の川竹亭を買収し、大正11年の元旦に神田花月として開場しています。

 

また同年の5月には横浜の新富亭を買収して、横浜花月として

オープンさせています。

 

これが吉本興業部の首都圏への進出ですが、大正時代はこの程度に

留まっています。

 

と言いますのは、大正12年(1923年)91日に関東大震災が勃発したからです。

 

震災により首都圏の寄席は大きなダメージを受けており、特に東京の

浅草などの下町は壊滅的な被害を受けています。

 

そのため吉本興業部も首都圏への進出をいったん棚上げして、

本格的にそれを進めるのは昭和に入ってからです。

 

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昭和2年(1927年)に、東京の演芸界のメッカというべき浅草に進出します。

 

同年に遊楽座を傘下に収めて色物中心の演芸場としてオープンさせると、

昭和座や公園劇場、万成座などを買収していきました。

 

昭和7年(1932年)には吉本興業合名会社の東京支社を設立し、

吉本せいの実弟の林弘高が支店長に就任。

 

以降は弘高が東京吉本を率いていく体制となりました。

 

昭和10年(1935年)には浅草花月劇場を建築しており、以降はここを

東京の本拠地としています。

 

(浅草花月劇場)

 

別の記事でもご紹介しましたが、弘高率いる東京吉本はモダン・

ハイカラ路線をとって、伝統的な演芸路線だった大阪吉本とは一線を画します。

 

レビューやアメリカナイズされたショウを多数おこなって、浅草花月劇場は

オープンからいつ行っても超満員でした。

 

また東京吉本は独自の専属制を採っており、そこから柳家金語楼や

柳家三亀松、あきれたぼういずなどのスターが育っています。

 

さらに後に童謡作家として有名になるサトウ・ハチロウさんも

東京吉本の文芸部出身です。

 

欧米色が強かったため、戦局の進行により大きなダメージを受ける

ことになりますが、現在の東京吉本まで脈々と続いています。

 

ドラマでは東京吉本の詳細が描かれるかどうかは不明ですが、

藤吉やてんが東京を目指すエピソードの下敷きにはこのような史実が存在しています。

 

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