わろてんか|てんと藤吉が寄席を経営するのはいつ?実話はどう?

 

朝ドラ『わろてんか』では、ヒロインのてんと藤吉は寄席を経営して

大阪を笑いの街へと変えていきます。

 

ふたりのモデルとなっているのが、吉本興業の創設者である

吉本せいと泰三夫婦ですから、今後の快進撃にも期待です。

 

ところがドラマでは思いのほか、寄席を経営するに至るまでが

苦労します。

 

ふたりが寄席を経営しはじめてからがドラマの大きな見どころと

なりますが、実際はいつになるのでしょうか?

 

また実話はどうだったのでしょうか?

 

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てんと藤吉が寄席を経営するのはいつ?実話はどう?

 

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てんと藤吉は北村屋の廃業後は寄席(小屋)の経営を目指しますが、

すぐに候補となる鶴亀亭という端席を見つけます。

 

鶴亀亭は既に閉鎖になっていますが、小屋主の亀井(内場勝則)は

藤吉らになかなか寄席を売ってくれません。

 

素人のふたりに寄席を譲ることを恥じとさえ考える亀井を説得して

何とか譲ってくれる約束を取り付けたのですが、そこへ太夫元の

寺ギン(兵藤大樹)が登場。

 

寺ギンは三日後に500円を出すということで、てんと藤吉は三日以内に

500円を用意しなければなりません。

 

北村屋は既に廃業しており、ふたりはお金を持っていませんから、

もはや鶴亀亭の取得は絶望的になります。

 

しかしそこで動き出すのがてんでした。

 

彼女は実家である藤岡屋に戻って500円の前借りを求めます。

 

もちろん父親の儀兵衛はそんな要求に応じようとしませんが、

最終的には祖母のハツのアシストもあって500円の調達に成功。

 

晴て鶴亀亭を手に入れることになって、ようやく寄席の経営に

乗り出します。

 

ドラマでは第6週の終わりごろの予定です。

 

このようにドラマでは寄席をはじめるまでに一山あって、

それらを乗り越えてやっとこさ興行に着手できることになります。

 

で、実話はといいますと、意外にもあっさりと寄席の経営権を

取得しています。

 

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北村屋のモデルとなっている吉本泰三の実家の箸吉が倒産してから

3年ほどは、泰三はせいの実家の林家に居候していました。

 

そんな中、明治45年(1912年)に鶴亀亭のモデルである

第二文藝館が経営難で売りに出されていることを知った泰三は、

これを買収して寄席を経営することを妻のせいに相談します。

 

(第二文藝館)

 

当時のふたりはもはや失うものは何もない状態だったので、

せいもこれに同意して、寄席の経営という勝負に出ることに

なります。

 

問題は当時のふたりが無一文だったこと。

 

また泰三は資金調達のすべてをせいに任せています。

 

第二文藝館の経営権は300円でしたが、運転資金を含めると

500円は必要でした。

 

せいは高利貸しなどあっちこっちから借金をして200円を調達

しましたが、残りの300円は父親である林豊次郎から借りています。

 

明治末期の1円の価値は現代の2万円程度と言われており

(諸説ありますが)、そうだとすれば当時の500円は

今の1000万円程度。

 

無一文でもそんな金額を用意できるところは凄いですが、

実話では意外にもあっさりと第二文藝館の経営権を取得できています。

 

ドラマでは寄席の確保や出演芸人の調達など、何かと苦労を重ねる

ことになりますが、てんと藤吉の頑張りにも期待ですね♪

 

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