わろてんか|寺ギン(兵藤大樹)のモデルは岡田政太郎!史実と違う

 

朝ドラ『わろてんか』では、太夫元として兵藤大樹さん演じる

寺ギンが登場。

 

太夫元とは言わば芸能プロモーターのようなもので、

当時の寄席は太夫元を通して出演する芸人を確保していました。

(専属芸人がいない場合)

 

ドラマでは当代随一の落語家である喜楽亭文鳥(笹野高史)

率いる「伝統派」と寺ギンが率いる「オチャラケ派」が対立

しているという構図です。

 

てんと藤吉が経営する寄席「風鳥亭」も当初は寺ギンから

芸人を派遣してもらうことになりますが、売上の7割を

寺ギンが持っていく暴利に苛まれます。

 

またてんたちは最終的には北村笑店を立ち上げて自らが

太夫元となりますが、寺ギンは報復して寄席の売却を迫ります。

 

このようにドラマでは興行界に足を踏み入れたてんらは、

まずは寺ギンとの戦いに直面することになります。

 

そんな寺ギンのモデルとなっているのは、浪速(落語)反対派

を起こした岡田政太郎です。

 

 

しかしドラマの寺ギンに関しては、役割などが史実と

大きく異なっています

 

(岡田政太郎)

 

コンテンツ

寺ギン(兵藤大樹)のモデルは岡田政太郎!史実と違う

 

スポンサードリンク

 

寺ギンのモデルとなっている岡田政太郎は、もともとは

銭湯を経営していましたが、株で大儲けしたことがきっかけで

興行界に入り、富貴亭という寄席を買収して経営にあたります。

 

と同時に岡田興業部なる太夫元もはじめて、三流どころの落語家や

当時は「色物」と呼ばれて蔑まれた芸人たちを集めて

「浪速反対派」を立ち上げます。

 

当時上方の落語界は桂文枝の名跡を巡って分裂した桂派と

三友(さんゆう)派が対立していました。

 

そんな中、突如現れた浪速反対派ですが、芸人の格などに

こだわらなかったことから、瞬く間に大阪の興行界に

影響を与えるほどの勢力となっていきます。

 

また桂派は明治43年(1910年)に象徴的な存在だった

二代目桂文枝が亡くなると急速に衰えて、

大正4年(1915年)までに三友派に吸収されてしまいます。

 

そのため以降は浪速反対派VS三友派の構図となりますが、

ドラマではこのあたりはオチャラケ派VS伝統派として描いています。

 

スポンサードリンク

 

で、浪速反対派を率いた岡田政太郎ですが、てんのモデルの

吉本せいとは生涯にわたり盟友関係でした。

 

吉本せいと泰三夫婦が立ち上げた寄席「第二文藝館」は

三流どころでしたし、資金不足で一流の落語家などを

招聘することはできませんでした。

 

そのため浪速反対派に所属する三流落語家や芸人たちは

格安で出演してくれるので非常に重宝する存在で、

せいと浪速反対派は蜜月状態が続きます。

 

今風に言えば岡田政太郎はせいにとってビジネスパートナー

といったところで、大正9年(1920年)に岡田が急死するまで

良好な関係でした。

 

そのためドラマの寺ギンのように売上の大半を吹っ掛けたり、

てんたちの寄席の売却を迫ったりしたこともありません。

 

ドラマでは寺ギンはてんからすれば「悪役」として描かれますが、

史実の吉本せいからすれば岡田は頼りになる「味方」でした。

 

まぁ~ドラマからすれば悪役も必要なので寺ギンのキャラクターを

そのようにしたのでしょうが、モデルとなっている岡田には

ょっとかわいそうな気がします。

 

黎明期の吉本興業部の寄席を陰から支えたのが岡田でしたから…

 

他の記事でもご紹介しましたが、吉本せいと吉本興業部は

大正11年(1922年)に政太郎の跡を継いだ次男の政雄の

器量が小さいと見るや浪速反対派を乗っ取っています。

 

このあたりは吉本せいの「暗部」とも言えるエピソードですが、

やはり興行界でのし上がっていくには一筋縄ではいきませんね~

 

ドラマのてんや藤吉と寺ギンの対決に期待しましょう!

 

送料無料の情報が満載!ネットで買うなら楽天市場

 

スポンサードリンク

 

コメントを残す

サブコンテンツ

このページの先頭へ