わろてんか|吉本せいや吉本興業が手掛けた芸人が凄い!

 

 朝ドラ『わろてんか』では、ヒロインのてんと藤吉夫婦は

寄席の経営から身を興し、上方のお笑い界を席巻するほどの

興行会社へと成長させていきます。

 

周知のとおりそのモデルとなっているのは、吉本興業

その創設者の吉本せい・泰三(吉兵衛)夫婦です。

 

お笑いの世界が舞台になっていることから、ドラマにはリリコやキース、

あさりや万丈目吉蔵といった芸人たちも登場。

 

ドラマで描かれる彼らの芸も楽しみですね♪

 

ところでモデルとなった吉本せいや戦前の吉本興業部は

わずか10年ほどで上方の興行界を支配するほどの存在となりましたが、

手掛けた芸人たちもかなり豪華です。

 

吉本せいや戦前の吉本興業部が手掛けた主な芸人たちをご紹介します。

 

 

吉本せいや吉本興業が手掛けた芸人が凄い!

 

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【桂春団治】(落語)

 

 

戦前の吉本を語る上で避けて通れないのが、

「爆笑王」と呼ばれた桂春団治です。

 

ドラマでも波岡一喜さん演じる月の井団吾として登場します。

 

春団治は当初は吉本と敵対する三友派に所属する落語家でしたが、

大正10年(1921年)に吉本入り。

 

春団治の2万円もの借金を吉本が肩代わりすることと

月給700円という破格の条件(1000円あれば家が建つ時代)で、

吉本が引き抜いています。

 

当時の春団治の人気は飛ぶ鳥を落とす勢いで、吉本興業部も次々に

寄席を買収して春団治を出演させています。

 

第二文藝館という三流の寄席からスタートした吉本興業部でしたが、

わずか10年間で上方の興行界を支配していますが、

春団治は吉本の急成長に大きく貢献しています。

 

古典落語にナンセンスなギャグを取り込んだ斬新なスタイルは

大いにウケて、後述の横山エンタツ・花菱アチャコらとともに、

戦前の吉本の看板芸人でした。

 

春団治は昭和9年(1934年)に54歳の若さで亡くなっていますが

(死因は胃癌)、彼が吉本に残した功績は計り知れないものと

なっています。

 

【日本チャップリン・梅廻家ウグイス】(漫才)

 

 

夫婦漫才のパイオニア的な存在として初期の吉本興業部を支えた

コンビが、日本チャップリンと梅廻家(うめのや)ウグイスです。

 

このコンビははじめて「漫才」の看板を東京で掲げたことや

コンビ名にカタカナを用いたことで知られています。

 

当初はウグイスが三味線や太鼓を演奏して、チャップリンが

曲芸を披露するという芸風でしたが、ウグイスがツッコミ、

チャップリンがボケの夫婦漫才のスタイルを導入すると人気が爆発。

 

吉本興業部には大正7年(1918年)より在籍して、

昭和初期まで活躍しました。

 

チャップリン、ウグイスとも本名や生没年がわからないなど、

未だに謎の多いコンビです。

 

【横山エンタツ・花菱アチャコ】(漫才)

 

 

現在の漫才に通じる「しゃべくり漫才」を導入した

漫才の元祖的な存在。

 

ドラマのキースとあさりのコンビのモデルとなっています。

 

それまでの漫才は芝居や芸の合間に挟むものでしたが、

エンタツとアチャコのコンビは話芸のみのスタイルに一新して

上方のお笑い界に切り込みます。

 

アチャコは大正15年(1926年)、エンタツは昭和5年(1930年)に

吉本興業部入りしています。

 

昭和5年(1930年)に実験的にコンビを組んでしゃべくり漫才を

披露していますが、当時は新しすぎてウケませんでした。

 

しかし衣装も今風のスーツ姿で、「キミ」や「ボク」といった

言葉づかいで時事ネタを取り入れるスタイルは徐々に受け入れられていき、

昭和9年(1934年)ごろには人気も爆発。

 

後述の桂春団治やミスワカナと玉松一郎のコンビらとともに、

戦前の吉本黄金期を築き上げることになる功労者です。

 

まさに現在の漫才の祖とも言えるコンビでしたが、

コンビとしての活動期間はわずか4年と3カ月でした。

 

人気絶頂だった昭和9年にアチャコが中耳炎で入院すると、

病が長引くと予想したエンタツは突然アチャコとのコンビを解消して、

喜劇俳優の杉浦エノスケと新たなコンビを組んでいます。

 

【初代柳家三亀松】(都々逸)

 

 

都々逸で鳴らしたイケメン芸人が、初代柳家三亀松(みきまつ)です。

 

16歳で芸人を目指し様々な寄席に出演し、昭和2年(1927年)に

吉本興業部が東京に進出した際に、吉本せいの実弟の林弘高から

スカウトされて吉本入りしています。

 

都々逸のほか、女性の色っぽい声色を使った音曲漫談でも人気でしたが、

過激すぎて当局から寄席での禁止令が出たり、レコードも発売禁止処分

になるほどでした。

 

後述の柳家金語楼とともに東京吉本の二枚看板を張りますが、

私生活が派手で豪遊好きで借金まみれとなって、

吉本興業部から抜けることができなくなったと言われています。

 

戦後はヒロポン中毒に陥ますが、それを克服して見事に復帰しています。

 

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【柳家金語楼】(落語)

 

 

戦前に榎本健一(エノケン)や古川ロッパとともに、

「三大喜劇人」と呼ばれたのが柳家金語楼です。

 

軍隊に所属していた経験から兵隊落語を考案して大ヒット。

 

寄席にジャズを取り入れたりする斬新な発想もあって、

東京吉本の看板になっていきます。

 

また喜劇俳優としても活躍して、数多くの映画にも出演。

 

戦後はテレビ番組で人気者になるなど、71歳で亡くなった

昭和47年(1972年)まで息の長い活躍をしています。

 

【ミスワカナ・玉松一郎】(漫才)

 

 

夫婦漫才で昭和初期に一世を風靡したのが、ミスワカナと玉松一郎の

コンビです。

 

昭和12年(1937年)に吉本せいの実弟の林正之助のスカウトで

吉本入りを果たすと、ワカナの美貌と毒舌、美声もあって翌

年に大ブレイクします。

 

 

一郎のアコーディオンに合わせて、ワカナが歌ってしゃべる

モダンな芸風で知られていました。

 

しかし昭和14年(1939年)に松竹によって吉本興業から引き抜かれると、

松竹と吉本の抗争に発展し大騒動となっています。

 

松竹移籍後も人気を博していましたが、ワカナは昭和21年(1946年)に

ヒロポン中毒が原因と思われる心臓発作によって36歳の若さで

亡くなっています。

 

【あきれたぼういず】(ヴォードヴィル)

 

 

昭和10年(1935年)に東京吉本が浅草花月劇場をオープンさせて、

レビューの「吉本ショウ」の開催とともに人気を博したのが

あきれたぼういずです。

 

リーダー格の川田義雄はかなりの美声の持ち主で、

「ダイナダイナはなんだいな」というフレーズの

「ダイナ狂想曲」も大ヒット。

 

漫才のギャグを歌で表現するスタイルがウケて、

瞬く間に人気グループになっています。

 

しかし昭和14年(1939年)に松竹による引き抜きにあって、

川田以外のメンバーは吉本を抜けています。

 

ちなみに川田は戦後に美空ひばりを見出した人物として知られており、

ひばり自身も「師匠と呼べるのは父と川田先生だけ」と語っています。

 

 

【二代目広沢虎造】(浪曲師)

 

 

「清水次郎長伝」で有名な浪曲師の広沢虎造も、

吉本興業のマネジメントを受けています。

 

戦前は東京吉本の寄席や劇場を中心に出演しており、

半ば吉本の専属状態でした。

 

吉本が虎造を招き入れた頃は既に人気の浪曲師でしたが、

吉本せいが虎造の芸に感銘して熱心に勧誘したと言われています。

 

【ミヤコ蝶々】(漫才)

 

 

戦後長らく上方の漫才・喜劇界をリードした女芸人

ミヤコ蝶々も吉本出身です。

 

昭和17年(1942年)に吉本入りして、初代ミスワカナの死後は

二代目ミスワカナを名乗っていた頃もありました。

 

戦後はヒロポン中毒に苦しんだ時期もありましたが、

昭和23年(1948年)から上方トンボと組んだ夫婦漫才がウケて、

以降は人気芸人の道を歩んでいます。

 

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