わろてんか|藤岡てん(葵わかな)のモデルは吉本せい!生涯が凄い

 

朝ドラ『わろてんか』で、葵わかなさんが演じるヒロインが

藤岡てんです。

 

京都の老舗薬問屋の「藤岡屋」の長女の彼女は、人を笑わすのが大好きで

「笑って生きる」ことこそが人生の希望と確信。

 

そのため日本中に笑いを広めるために、懸命に働くことになります。

 

そんなてんのモデルは、吉本興業の創始者の吉本せいです。

 

現在も多くのお笑い芸人やタレントを抱える吉本興業ですが、

そのルーツはせいが始めた端席の寄席「第二文藝館」です。

 

せいがどのように身を起こし、吉本の礎を築いてきたのか、

その人生をまとめてみます。

 

 

藤岡てん(葵わかな)のモデルは吉本せい!生涯が凄い

 

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藤岡てんのモデルの吉本せいは、明治22年(1889年)125日に生まれました。

 

旧姓は林で実家の家業は米穀商です。

 

父は豊次郎、母はちよの三女として生まれたせいですが、きょうだいは何と

12人もいました(長女は早逝)

 

義務教育が終了した尋常小学校4年(10歳)で奉公に出されており、

19歳の時に老舗荒物問屋「箸吉」の次男である吉本吉次郎と結婚します。

 

ところがこの吉次郎は老舗のボンボンで名うての遊び人でした。

 

家業が傾いているにも関わらず、店はせいらに任せるばかりで

剣舞などの遊興に耽る毎日。

 

夫が放蕩三昧だったので、この時期のせいはかなりの苦労を重ねたようです。

 

ところがこの吉次郎の遊興が後に幸運をもたらすことになります。

 

さらにエスカレートした吉次郎の遊興ですが、旅興行の一座の

太夫元(興行主)を買って出る始末。

 

家業の荒物問屋はますます苦しくなりますが、このことをきっかけに

吉次郎は興業のノウハウを知ることになります。

 

そして明治45年(1912年)に経営の傾いていた寄席「第二文藝館」を買収すると、

大正2年(1913年)1月には「吉本興業部」の看板を掲げることになります。

 

これこそが現在の吉本興業のルーツとなります。

 

しかし決して順風満帆の船出ではなく、当時は既に箸吉は閉店しており

収入がなく、もはや吉本家はこの寄席に賭けるしかなかった状態でした。

 

しかも遊び癖がついている吉次郎は真面目に経営にあたることはなく、

第二文藝館や吉本興業部の経営もせいの細腕にかかることになります。

 

ところがここでせいの商才が発揮されることになります。

 

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第二文藝館は一般的な寄席の木戸銭(入場料)が15銭だった時代に、

わずか5に木戸銭を設定する格安戦略に打って出ます。

 

また当時の寄席は時間制限などがなく、一度入場してしまえば

客はいつまでも居続けることができました。

 

そのためせいは寄席の回転を早くするために、非常に下手くそな芸人や

客にウケない芸人などを意図的に挟んで客を自ら退席させたりしました。

 

また同じ芸人を再登場させて客のほうに寄席が一周したと錯覚させて

退席させたりと、せいはあの手この手で寄席の回転を早めていきます。

 

さらには定員を遥かに超える700人を詰め込むなど、いささか強引とも思える

手法にも出ています。

 

加えて寄席で売っていたラムネの売上を上げるために、酢こんぶや焼きイカ、

あられといった塩辛いものばかりを売るなどして木戸銭以外の収入を

増加させています。

 

このような手法で第二文芸館を人気の寄席にしていったばかりか、

せいは次々に大阪の寄席を買収していくことになります。

 

また当時の上方落語界の桂派と三友派の二大勢力の対立が激化しており、

寄席のレベルが全体的に低下していたことも追い風となりました。

 

大正10年(1921年)にどちらの派閥に属さない浪速落語反対派と提携した

吉本興業部は、反対派の人気芸人を続々と寄席に出演させてさらなる人気を

得ます。

 

と同時に、せいは三友派の看板というべき落語家の初代・桂春団治を

口説き落として傘下に入れています。

 

 

当時は大阪一の人気を誇った春団治の人気は凄まじく、ますます吉本や

傘下の寄席の花月は勢いが増すことになりました。

 

すると大正11年(1922年)には吉本興業部は反対派を吸収して、

桂派との戦いに勝利していた三友派の象徴的な寄席の「紅梅亭」までもを買収。

 

最終的には三友派までを吸収して、上方演芸界全体を掌握することに

なります。

 

このあたりは遊び人の吉次郎の顔の広さも役立ったようですが、

せいの辣腕によるところが大きかったと言います。

 

三流の寄席だった第二文藝館を買収してから、わずか10

吉本興業部は上方のお笑いの世界をすべて手中に収めてしまったのです。

 

また大正11年には神田の寄席「川竹亭」の買収を皮切りに、

首都圏に進出していきます。

 

これが現在の東京吉本のルーツになりますが、当時の首都圏への進出に

手腕を振るったのがせいの弟の林弘高です(後の吉本興業部二代目社長)

 

大正13年(1924年)に吉次郎が急逝しますが、弘高とともに

これまた実弟の林弘之助がせいを助けます。

 

昭和7年(1932年)には吉本興業合名会社に改組して、正式に東京支社を開いて

弘高を社長に任じています。

 

そして昭和10年(1935年)には東京吉本の拠点となる「浅草花月劇場」を

オープンさせるなど、時代は昭和に入っても吉本の勢いは続きます。

 

また当時は横山エンタツ・花菱アチャコ、柳家金語楼など吉本所属の

芸人たちが続々と映画出演するなど、戦前の黄金期を迎えることになります。

 

その後は戦災で大きなダメージを受ける吉本ですが、終戦とともに

寄席を映画館や進駐軍用のキャバレーに転用することでこれを乗り切ります。

 

せいは昭和25年(1950年)に60歳で亡くなりますが、

その後の吉本の再躍進は周知の通りです。

 

また昭和に入るとふたりの弟の活躍もありますが、大正時代に上方の

演芸界を席巻するのはやはりせいの手腕によるところが大きいと

言わざるを得ません。

 

また商売に辣腕を発揮する反面、人に対して気遣いもできる気さくな人物

として知られ、芸人たちからは「おせいさん」と呼ばれて慕われていました。

 

長文になってしまいましたが、これでも吉本せいの生涯をざっくりと

まとめたつもりです。

 

個別のエピソードなどは別の機会にご紹介させていただきます。

 

ドラマではせいがモデルの藤岡てんを、キャストの葵わかなさんが

どのように演じるか楽しみですね♪

 

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