わろてんか|毎報新聞のモデルはあの全国紙!役割が史実と異なる?

 

 朝ドラ『わろてんか』では、毎報新聞の小寺という記者が北村笑店を訪れて、

芸人の慰問団を組んで戦地への派遣を求めてきます。

 

当初てんは芸人たちを危険な目に遭わせたくないことや軍部にあまり深入りしないようにとの

伊能のアドバイスなどからこれに消極的でした。

 

しかし最終的には前線で頑張っている兵隊を励ますために、これを了承。

 

北村笑店の芸人たちで「わろてんか隊」を組織して、上海に向かうことになります。

 

他の記事でもご紹介しましたが、このモデルとなっているのが吉本興業部のわらわし隊です。

 

そしてドラマの北村笑店に慰問団の話を持ち掛けてきた毎報新聞のモデルは、

どこの新聞社だったのでしょうか?

 

 

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毎報新聞のモデルはあの全国紙!役割が史実と異なる?

 

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毎報新聞のモデルとなっているのは、朝日新聞です。

 

 

戦前の吉本興業部は定期的にわらわし隊を中国大陸に派遣していますが、

朝日新聞と合同でこれをおこなっています。

 

そもそも満州事変以降、朝日や毎日などの大新聞社はこぞって慰問団を中国大陸に送っており、

それらは皇軍慰問団と呼ばれていましたが、わらわし隊もそのひとつでした。

 

慰問団の中でもっとも多かったのは芸能慰問団のようで、東海林太郎や森光子なども

参加していました。

 

他にも囲碁の日本棋院や日本将棋連盟などと提携した皇軍慰問団を送ったこともあり、

後に昭和を代表する囲碁棋士となる藤沢秀行なども慰問団に加わっています。

 

ドラマでは慰問団は毎報新聞が企画して、北村笑店に話を持ち掛けることになります。

 

北村笑店側は当初はためらいますが、最終的にはやむにやまれぬ形で慰問団を派遣する

ことになります。

 

ところが史実では、吉本興業は当初から慰問団に積極的に協力しています。

 

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他の記事でもご紹介しましたが、昭和6年(1931年)の満州事変の際の第1回目の

わらわし隊の際はマスコミが吉本の芸人たちを書き立ててくれるというしたたかな計算がありました。

 

また昭和13年(1938年)の2回目のわらわし隊(ドラマのモデルとなっているのはこちら)

の際は、寄席などの検閲が厳しくなってきたため吉本が軍に積極的に協力していることを

アピールすることが主な目的でした。

 

ドラマでは「日本軍」や「戦争」に積極的に加担したように描かないために、あくまでも

わろてんか隊は毎報新聞の企画で、北村笑店はしぶしぶとそれに乗ったという風に描くようですね。

 

そのため新聞社も、朝日新聞の影も形も感じられない「毎報新聞」という社名にするようです。

 

戦後は全国紙の中でももっとも革新的でリベラルな論調で知られる朝日新聞ですが、

戦前は他紙と同様に積極的に軍などにも協力していたようですね。

 

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