わろてんか隊モデルわらわし隊は中国軍に攻撃されて死人も出てた

 

朝ドラ『わろてんか』では、北村笑店は新聞社からの要請を受けて慰問団である

「わろてんか隊」を上海に派遣することになります。

 

別の記事でもご紹介しましたが、わろてんか隊のモデルは戦前の吉本興業部が

中国戦線に派遣したわらわし隊です。

 

最初のわらわし隊は昭和6年(1931年)の満州事変の際に結成されて、中国戦線を慰問。

 

2度目は日中戦争が深刻化しはじめた昭和13年(1938年)1月からで、以降も随時

吉本興業部はわらわし隊を中国大陸に派遣しています。

 

しかしこのわらわし隊は中国軍の攻撃を受けて、死者まで出していたのです。

 

(左から林正之助、ミスワカナ、花菱アチャコ、柳家三亀松、横山エンタツ)

 

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わろてんか隊モデルわらわし隊は中国軍に攻撃されて死人も出てた

 

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日中戦争勃発後のわらわし隊は昭和131月から中国大陸に派遣されましたが、この際も

最前線まで慰問に赴き、中国軍が塹壕を掘っている手前まで行ったり、砲撃を受けている

最中に芸を披露したりと、かなり危険な目にも遭っています。

 

昭和16年(1941年)6月のわらわし隊は桂金吾が団長となって、相方で妻の花園愛子、

奇術の松旭斎清子や清美、他に夫婦漫才のコンビが一組と浪曲師、声帯模写の男性芸人で

構成されていました。

 

このわらわし隊に悲劇が起こったのは722日のことです。

 

済源の歩兵二百二十一連隊を慰問後、さらに西の歩兵二百二十連隊を慰問するために一行は

4台のトラックで向かいました。

 

しかしその日の昼頃に峠道に差し掛かった際に、中国人民軍の待ち伏せ攻撃に遭います。

 

先頭車が被弾して急停車して、後続車に乗っていた護衛の兵士や芸人たちは河原へ散開して

応戦しました。

 

敵は200人もいて機銃掃射したため、40名ほどのわらわし隊の護衛の日本兵たちはバタバタと

倒れていきます。

 

芸人たちも覚悟を決めて戦死した兵士たちの銃をとって応戦し、中国兵に手りゅう弾を

投げつけるなどもしています。

 

結局戦闘は救援隊が駆け付けるまで4時間あまりも繰り広げられました。

 

護衛の兵士は13名死亡していますが、芸人たちの中で唯一殉死したのは、先頭車両に乗っていた

花園愛子です(享年36歳)。

 

その日に限って先頭車両の助手席に乗っていた彼女は、負傷した運転手を抱えて下車しよう

とした際に、右大腿部に2発被弾してしまいます。

 

夫の金吾が駆け付けますが、その後に出血多量で亡くなっています。

 

桂金吾と花園愛子は東京吉本に所属しており、歌と三味線をつかった夫婦漫才で浅草花月の

人気コンビでした。

 

 

相方の金吾はその後1か月あまりのわらわし隊での活動をしますが、帰国後はショックのためか、

芸人を引退しています。

 

わらわし隊はその後、1か月ほど中国大陸を慰問して帰国しましたが、その際には東京駅で

軍や警察、駅長や吉本興業部の関係者が出迎えています。

 

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そして8月におこなわれた愛子の告別式には当時の首相・東条英機の妻も参列しています。

 

その後、愛子には勲八等が送られて、靖国神社に合祀されています。

 

漫才師で靖国に合祀されているのは、この花園愛子のみと言われています。

 

これとは別の機会に、わらわし隊の一行が乗っていた船が台湾沖で中国軍の魚雷によって撃沈されたこともありました。

 

その際には乗船していたトランプ・カルタのコンビ、玉子家辰次ミスワカメ

(ミスワカナの弟子)らが死亡しています。

 

このようにわらわし隊は最前線まで慰問していたことから、まさに命がけだったのです。

 

当時の吉本興業部の責任者だった林正之助や売れっ子の横山エンタツ、花菱アチャコ、

ミスワカナなどもわらわし隊の経験もありますから、彼らもかなりの覚悟で中国大陸へ

向かったはずです。

 

華やかに語られることも多い吉本興業部のわらわし隊ですが、その陰では犠牲者も

出ていたのです。

 

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