わろてんか|エンタツ・アチャコは短期間で解散していた!驚きの理由

 

朝ドラ『わろてんか』では、キースとアサリによる「しゃべくり漫才」が完成します。

 

それまでの漫才は踊りや歌が間に入るなどしていましたが、話芸のみのしゃべくり漫才は

「漫才の改革」とも言えるもの。

 

現在の漫才にも通じるしゃべくり漫才ですが、これによってキースとアサリのコンビも

大ブレイクしていくことになります。

 

別の記事でもご紹介しましたが、これらのエピソードは横山エンタツと花菱アチャコ

しゃべくり漫才で一世を風靡した史実が下敷きになっています。

 

まさに漫才の改革者のようなふたりでしたが、実は短期間でコンビを解散していたのです。

 

また解散の理由が驚きでした。

 

 

エンタツ・アチャコは短期間で解散していた!驚きの理由

 

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横山エンタツと花菱アチャコがコンビを組んだのは昭和5年(1930年)のことです。

 

それまではアチャコは千歳屋今男とコンビを組んで、それなりの人気がありました。

 

ところが林正之助が横山エンタツをスカウトしてくると、強引にコンビを解消させて、

アチャコとエンタツを組ませます。

 

そして正之助の発案により、洋装姿で舞台に上がったふたりは、「キミ」や「ボク」といった

言葉づかいで、日常的な話題をそのまま漫才のネタにして、終始喋りまくり。

 

当時はかなり衝撃的で、「しゃべくり漫才」の一大ブームを引き起こします。

 

一躍スターになった彼らは映画にも出演して、吉本興業部の戦前の看板コンビとなります。

 

ところが昭和9年(1934年)に突然の解散となって、コンビでの活動はわずか3年と9か月

留まります。

 

また人気絶頂期でのコンビ解消ですから、当時は少なからず世間を驚かせたはずです。

 

そんなエンタツとアチャコのコンビの解散理由は、アチャコの中耳炎でした。

 

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中耳炎は治療法が確立されていなかった当時は恐ろしい病気で、死の危険性すらありました。

 

エンタツは計算高かったことで知られており、アチャコが中耳炎にかかったと知るや否や、

正之助に相談して一方的にコンビを解消しています。

 

チャコが死んでからでは遅いとの判断でしょうが、エンタツのドライな性格が窺えますね~

 

そしてその後は杉浦エノスケとコンビを組みましたが、映画に関してはシリーズなどが

好評だったことから、引き続きアチャコとともに出演しています。

 

しかし失意のどん底に突き落とされたのがアチャコです。

 

ただでさえ中耳炎を患っており、人気絶頂でのコンビの解消にかなり落ち込んだと言われています。

 

幸い中耳炎は完治しましたが、退院以降は再び千歳屋今男とコンビを組むことになります。

 

一世を風靡して現在でも語り継がれる伝説のエンタツ・アチャコのコンビは、実は非常に

短期間での活動だったのです。

 

その後は別々の道を歩んだふたりですが、大きな成功を掴んだのはアチャコのほうでした。

 

戦後は唯一の吉本興業所属の芸人だったアチャコですが、ラジオ番組「アチャコ青春手帖」が

大ヒットして映画化されることになります。

 

また演技もうまかったことから、俳優として長谷川一夫主演の「銭形平次捕物帳」などにも出演。

 

さらに昭和34年(1959年)に吉本興業が演芸部を復活させると、以降は看板芸人としても活躍。

 

一方のエンタツは「爆笑エンタツ劇団」を旗揚げして全国巡業などに出ていますが、

アチャコの成功には見劣っています。

 

息子である喜劇役者の花紀京には「自分の芸には力がない」と嘆いたこともありました。

 

このようにかなり明暗が分かれたふたりですが、戦後に2回だけふたりで漫才を披露しています。

 

1回目は昭和28年(1953年)の千日グランドのこけら落としです。

 

2回目は昭和38年(1963年)のNHKのテレビ番組「漫才の歴史」の番組内でした。

 

どちらもコンビ解消からかなり後のことでしたが、ブランクを感じさせない名コンビぶり

だったそうです。

 

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