わろてんか|落語か漫才で藤吉と風太が激しく対立!史実はどうだった?

 

朝ドラ『わろてんか』では舞台は昭和に突入すると、寄席の経営を巡って

北村笑店の社長の藤吉と番頭の風太が激しく対立することになります。

 

その対立の原因となったのは、落語か漫才かということ。

 

藤吉は伝統的な落語推しですが、風太はこれからは漫才の時代が来ると予想。

 

この意見の食い違いは日に日に深い溝となって、果ては両者の激しい対立を

招くことになってしまいました。

 

このあたりの北村笑店の「内紛」は気になるところですが、下敷きになっている

エピソードをご紹介します。

 

 

落語か漫才で藤吉と風太が激しく対立!史実はどうだった?

 

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ドラマの藤吉と風太の対立の下敷きになっているのが、昭和初期の吉本興業部の漫才の導入です。

 

これは風太のモデルとなっている林正之助が中心となっておこなったことですが、

吉本興業部は昭和初期から寄席の目玉となる演目を落語から漫才にシフトしていきます。

 

というのも、大正中期あたりから上方落語の人気の凋落が顕著で、吉本が経営する

寄席の売り上げも頭打ちになってきていました。

 

上方落語界の長きにわたる対立や古典落語中心だった演目が飽きられてきたことなどが

理由に挙げられますが、吉本の寄席のチェーン化も構造上の問題があったように思えます。

 

吉本興業は寄席をチェーン化して台頭しましたが、その際には芸人や落語家の複数の

寄席への使い回しをしています。

 

そのため1日に何軒もの寄席に出演しなくてはならないことから、落語家も大ネタなどが

やれずに、20分未満の噺を多く演じるようになり、ファンも離れていきました。

 

このような事情からスピーディーで分かりやすい漫才を寄席に導入していくのですが、

ドラマのような対立はなかったようです。

 

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と言いますのも、やはり吉本せいにしろ泰三にしろ、上方落語の人気の凋落には

危機感を持っていたからです。

 

そのため大正11年(1922年)ごろには、花月の寄席に安来節を導入して経営の改善を図っています。

 

泰三は大正13年(1924年)に急死していますが、その後もせいは正之助の漫才拡張路線に

異を唱えてはいません。

 

当初はせいは漫才に対して懐疑的な見方をしていたようですが、昭和2年(1927年)に

松竹と合同で開いた漫才大会の「諸芸名人会」や「全国万歳座長大会」などが成功した

ことから、この頃には考えも変わったようです。

 

昭和5年(1930年)には横山エンタツ・花菱アチャコのコンビが大ブレイクして、

正之助が仕掛けた10銭漫才のアイデアも成功します。

 

この頃からは漫才と落語の立場は逆転して、花月の舞台でも漫才が興業の中心になって

いきました。

 

ドラマではこのあたりの落語から漫才へとつながる過渡期を、藤吉と風太の対立を交えて

描いていくようですね♪

 

もちろん前述の経緯に鑑みれば、最終的には風太の漫才推しが正しかったとなるでしょう。

 

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