吉本興業と巨人(読売ジャイアンツ)の驚きの関係とは?

 

朝ドラ『わろてんか』のモデルとなっているのが、日本最古の

芸能プロダクションの吉本興業です。

 

同社のルーツは明治45年(1912年)4月に、創業者の吉本泰三・せいの

夫婦がはじめた端席の寄席の第二文藝館です。

 

以降は寄席のダンピングやM&Aによるチェーン化でのし上がり、

大正中期には上方の演芸界を支配するほどの存在となります。

 

さらに昭和初期には漫才ブームを巻き起こすとともに、首都圏に進出。

 

ピーク時の昭和10年(1935年)前後には松竹や東宝と並び、

三大興行会社と呼ばれるほどになりました。

 

そんな戦前の吉本興業部でしたが、プロ野球の巨人軍(読売ジャイアンツ)

とは浅からぬ関係にあったことはあまり知られていません。

 

 

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吉本興業と巨人(読売ジャイアンツ)の驚きの関係とは?

 

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現在の巨人の前身にあたる大日本東京野球倶楽部が設立されたのは、

昭和9年(1934年)のことです。

 

 

この年にはアメリカからベーブ・ルースやルー・ゲーリックらを擁す

メジャーリーグ選抜チームが来日し、日本の野球熱も一気に過熱した年でした。

 

そのため同年の12月に大日本東京野球倶楽部が設立され、戦前の名投手

だった沢村栄治選手ら19名の選手が所属となっています。

 

設立の音頭をとったのは読売新聞社の社長だった正力松太郎で、

大日本東京野球倶楽部の設立にあたっては様々な企業に出資を要請しています。

 

筆頭株主となったのは京成電鉄でしたが、吉本興業部も出資して株主となっています。

 

この大日本東京野球倶楽部は2年後には、東京巨人軍に改称することになります。

 

後に読売巨人軍となって、球界の盟主とも言われる読売ジャイアンツの

ルーツなのです。

 

実は吉本興業部は読売ジャイアンツの生みの親のひとりと言ったところなのです。

 

そしてどうやらこの件を主導したのは吉本せいや林正之助ではなく、

東京吉本の社長だった林弘高のようです。

 

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吉本せいのもうひとりの弟である弘高率いる東京吉本は、吉本興業部とは

大きくその指向も異なっていました。

 

吉本興業部はあくまでも伝統的な演芸路線を採りますが、東京吉本は

モダン・ハイカラ路線を目指しています。

 

「吉本ショウ」というレビューや元祖外国人タレントのミス・バージニアが

在籍したり、多くのタップダンサーを抱えるなど、かなりアメリカナイズ

された興行で知られていました。

 

本家の吉本興業部があくまでも漫才や落語を興業の中心に置いたのとは、

かなり毛色も異なっています。

 

また弘高は戦後に力道山のプロレス興行を手掛けるなど、

スポーツの興行にも高い関心がありました。

 

そんな流れで大日本東京野球倶楽部にも出資をしたと思われます。

 

大日本東京野球倶楽部は後に読売興行株式会社となっており、

吉本興業部が参画したのは短期間のようです。

 

しかし後に王や長島らの名選手を輩出し、V9の偉業を遂げた

読売ジャイアンツの誕生に吉本が一枚絡んでいたというのは驚きですね♪

 

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