わろてんか|吉本興業の関東大震災での偉業が凄い!

 

朝ドラ『わろてんか』の北村笑店のモデルとなっているのは、

周知のとおり吉本興業です。

 

日本最古の芸能プロダクションとして知られ、現在では数え切れないほどの

芸人たちを抱えています。

 

同社のルーツは明治45年(1912年)4月に、創業者の吉本せいと泰三夫婦が

第二文藝館という寄席を開業したことに遡ります。

 

そして大正期に急成長して上方の演芸界に吉本王国を築き上げていますが、

大正12年(1923年)91日に関東大震災が発生した際には、

「偉業」とも言える行動に出ています。

 

そのあたりをご紹介いたします。

 

吉本興業の関東大震災での偉業が凄い!

 

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関東大震災は大正1291日に発生した当時としては未曽有の大震災

(マグニチュード7.9)で、東京を中心に約14万人もの死者・行方不明者を

出しています。

 

 

吉本興業は当時はまだ東京などの首都圏に進出しておらず、

その被害は皆無でした。

 

※訂正

当時は既に吉本は関東に進出しており、大きな被害を受けています

詳しくは下記をどうぞ

 

わろてんか|吉本の花月も関東大震災で被害を受けていた!

 

 

しかし大震災から1か月後の10月の初めに、吉本せいの指示で、

実弟の林正之助と2人の支配人に救援物資を運ばせています。

 

これは主に被災した落語家や芸人を救援するための目的でした。

 

当時の東京の芸人の多くは下町に住んでおり、寄席も浅草などに多くありました。

 

しかし浅草などの下町は大震災で壊滅的な被害を受けています。

 

そのため住む家を失った芸人たちも多く、寄席の再開なども目途がつかない

ことから、稼ぎの場さえ失って途方に暮れる者も少なくなかったと言われて

います。

 

彼らを救うためにせいは正之助に命じて、大量の毛布や米などの物資を

かき集めて首都圏の芸人に届けようとします。

 

しかし交通網がズタズタに分断されており、長崎丸という貨物船を

チャーターして、海路から首都圏に向かいました。

 

芝浦港から上陸した吉本の慰問団は、瓦礫の中で野宿したり、

重い物資背負って歩きまわって被災した芸人たちを探し出して、

物資を手渡しています。

 

当時の東京にしても横浜にしても一面は焼け野原で瓦礫の山でしたが、

正之助らは自らの危険も顧みずに芸人たちの救援にあたっています。

 

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また行政や諸団体の救援活動ははじまっていなかったことから、

救援物資を受け取った芸人たちは涙を浮かべて感謝したといいます。

 

まさに「偉業」とも言える吉本興業の慰問団でしたが、やはりそれらには

ちゃんと「裏」がありました。

 

吉本せいのかねてからの夢は、自らが経営する花月の舞台に東京の一流芸人

や落語家を出演させることでした。

 

しかし当時の東京の落語家たちは気位が高く、多くの東京の一流どころの

落語家たちが吉本の寄席への出演を断っています。

 

吉本としては何としても東京の一流芸人たちとコネクションを結びたい

ところでしたが、そんな中降ってわいたように起こったのが関東大震災

だったのです。

 

首都圏の寄席もしばらくは営業を見合わせたこともあって、

慰問団の効果はすぐに現れました。

 

当時人気だった柳家小さん(3代目)、桂小文治、三遊亭圓歌、柳亭左楽、

神田伯山といった落語家や芸人たちが次々と来阪して、花月の高座に上がっています。

 

これによって吉本は東京の一流どころの落語家や芸人とのパイプを

作り上げることに成功し、以降はたびたび東京の落語家を招集しています。

 

このように関東大震災の際の吉本の慰問団にはそれなりの理由もありました

が、危険を顧みずに被災した芸人たちに救援物資を届けたことは

立派ですし、まさに偉業というに他なりません。

 

東京の芸人たちとのパイプ作りはちゃっかりしており吉本らしいですが、

この行動力には感心するしかありませんね♪

 

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