わろてんか|桂春団治の悲惨な最期と死!モデルの団吾は大丈夫なの?

 

朝ドラ『わろてんか』では、初代桂春団治がモデルの落語家

月の井団吾が登場。

 

やはり春団治がモデルだけに、落語家としては天才的ながら狂気をはらむ

破天荒ぶりも描かれています。

 

団吾はその後北村笑店の専属の専属となって、その看板を張っていくことになります。

 

このあたりも春団治が吉本興業部の専属となって活躍したことが元ネタ

ですが、彼の晩年は悲劇的なものとなっています。

 

春団治の最期と死をご紹介していきます。

 

 

桂春団治の悲惨な最期と死!モデルの団吾は大丈夫なの?

 

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浪速の爆笑王だった初代桂春団治が吉本興業部に移籍したのは、

大正10年(1921年)のこと。

 

移籍後は主に南地花月(旧金沢亭)の高座に上がりましたが、

それまで出演していた三友派の高級寄席である紅梅亭の客は、

南地花月に押し寄せたといいます。

 

それほどまでに春団治の人気はすさまじく、ほどなくして三友派は

崩壊して、紅梅亭も吉本に買収されてしまいます。

 

その後も寄席やレコードで活躍した反面、昭和5年(1930年)には

吉本に無断でラジオ出演したことが大事件になるなど、良くも悪くも

話題を呼んだ人気芸人として吉本の看板を張り続けました。

 

ところが昭和6年(1931年)から春団治は体調がすぐれなくなって、

高座への出演回数も減っていきます。

 

また当時の吉本興業部は上方落語に見切りをつけており、

漫才を強く推していました。

 

昭和5年に横山エンタツ・花菱アチャコのコンビがブレイク後は

その傾向がより強まって、落語家よりも漫才師を積極的に寄席に起用しました。

 

そんな所属会社の方針や自身の体調不良もあって、晩年の春団治は

仕事が激減したようです。

 

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またその頃には春団治の代名詞だった破天荒なパフォーマンスも

すっかりと影を潜めていました。

 

しかも長年の浪費癖で莫大な借金もあったことから経済的にも困窮し、

ある日贔屓の客に呼ばれて料理屋に来た時は、あまりに貧相な服装と

汚い下駄に、店の者が驚いたと言われています。

 

その後彼の体調はますます悪くなり、昭和9年(1934年)に胃がんと診断され

手術も受けましたが、既に手遅れでした。

 

結局は同年106日に胃がんで亡くなってしまいますが(享年56歳)、その最後は

まるで朽ち果てるようだったと言われています。

 

しかも治療費はもちろんのこと、葬式費用すら持ち合わせておらず、

すべては吉本興業部が肩代わりしています。

 

浪速の爆笑王として一世を風靡した人物としては、悲惨で淋しい最期でした。

 

全盛期には「(芸人は)借金せなあかん」と言っていた春団治でしたが、

病床を見舞いに来た弟子たちには「芸人は借金したらあかん」と言うほどでした。

 

これも晩年の経済的な困窮がかなり身に応えたと思われます。

 

さらに春団治は見舞いに駆けつけた吉本せいや林正之助に、

「これでわいも、依願(胃がん)免官やなあ」と言って笑わせたと

伝わりますが、どうやらこれは作り話のようです。

 

死後もそんなエピソードが噂されるなど、やはり彼は多くの人々に愛されていたようですね。

 

なお春団治の名跡は死の直後に、弟子の桂福團治が二代目を継いでいます

が、吉本興業部は名跡を継がせることとの引き換えに、先代の莫大な借金も引き継がせています。

 

(二代目桂春団治)

 

やはり吉本は転んでもただでは起きないようです。

 

春団治の死後、吉本興業部や吉本せいは多くの人気漫才師を引っさげて、

ますます栄えていきますが、ドラマではこのあたりはどう描かれるのでしょうか?

 

団吾の最期や死などと併せて気になります。

 

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