あさが来た|新次郎や栄三郎の散切り頭はそんな簡単にできちゃうの?

 

朝ドラ『あさが来た』では、いよいよ新次郎や栄三郎が髷を落として

散切り頭になるようですね~

 

以前にも新次郎の散切り頭の画像をご紹介しましたが、とっても絵になっていて

なんだか実業家の風格も漂っていました♪

 

ドラマの舞台は明治9年(1876年)ころですから、多くの人が髷を落として

散切り頭になっていました。

 

以前、東京に行くあさの父の忠興五代友厚に散切り頭を勧められていた

新次郎ですが、頑なに拒んでいましたよね~

 

新次郎はオシャレで粋なので、時代遅れになりつつある髷を落として

世の中の流れに従うようですね♪

 

ところでドラマでは新次郎が栄三郎と雁助と連れだって外出し、

戻ってきた頃には三人とも散切り頭になっていたという流れで描かれるようです。

 

あたかも現代で床屋に行くような感覚で、髷姿から散切り頭にヘアスタイルを

変えたのですが、実際はこんな簡単に散切り頭にすることができるのでしょうか?

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新次郎や栄三郎の散切り頭は簡単にできるのか?

 

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新次郎や栄三郎の元々のヘアスタイルは、額から頭頂部へかけての頭髪を剃ったり、

抜いたりした月代(さかやき)があるタイプ。

 

江戸時代では武士や商人の一般的な髪形で、月代に毛が生えているのは無粋

とされたため、毎日のようにこれを剃り上げるのが当時の身だしなみとされました。

 

この月代のある髪形から髷を落としただけでは、散切り頭にはなりません。

 

イメージとしては新選組の沖田総司のような頭になってしまいます

(なお、沖田は髷がないわけではなく、後ろで結っていた)

 

沖田総司

 

で、資料が少なかったのですが、月代のある髪形から散切り頭にするには、

いったん総髪(そうはつ)にしてからが一般的だったようです。

 

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総髪は室町時代までの一般的な髪形で、イメージとしては宮本武蔵のような髪形です。

 

宮本武蔵

 

ただし、月代部分に髪が生えてくるには時間がかかったことから、

時の経過とともに五十日鬘(ごじゅうにちかずら)、百日鬘

(ひゃくにちかずら)とも呼ばれました。

 

また月代部分は毎日剃っていたことから、ちりちりの剛毛が生えてきたりして

人によっては かなり変な髪形になってしまったそうです。

 

たとえば石川五右衛門の髪形は大百日鬘とも呼ばれ、月代部分に生えてきた毛が

剛毛の天然パーマ状態になってしまったようです。

 

石川五右衛門

 

話しを元に戻しますが、月代に髪が生える過程を五十日鬘とか百日鬘と呼んだように、

総髪にするには数か月の時間が必要です。

 

とすれば髷姿の新次郎や栄三郎がふらりと外出して、散切り頭になって帰ってくる

というのはやはり無理がありそうです。

 

髷を落とした直後の新次郎や栄三郎の髪形が、七三分けのように

横から髪を流したスタイルになっているのは、このあたりの辻褄をつけようとした

NHKの製作陣の苦心の表れでしょう。

 

※追記

実際の放送では時間の経過をうまく演出し、

このあたりの辻褄をつけました♪

 

ふと疑問に思って調べてみましたが、なかなか面白かったです!

 

ちょっと資料が少なかったので、もしかしたら他の方法もあるかもしれないことも

ご承知おきくださいませ!

 

まぁ~ドラマでのこの件については目を瞑ってあげましょう♪

 

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2 Responses to “あさが来た|新次郎や栄三郎の散切り頭はそんな簡単にできちゃうの?”

  1. 戦国好き より:

    いつも楽しく拝見しております。
    ドラマの時代背景など、知ってることも知らないことも
    読んで知ることが好きなので
    仕事の合間にちょっと読むが日課になっています。
    今回の髷を落とす話。
    江戸時代の人ヘアスタイル、月代はサカヤキと読むのでは?
    私はずっとそう思っていたので気になりました。

    • rekidora より:

      戦国好き様

      コメントありがとうございました。
      おっしゃるとおり月代はサカヤキです。
      単純な綴りミスでしたが恥ずかしい限りです(ペコリ)

      またいつも拝読いただいきましてありがとうございます!
      これからも読者の方に「ほう」と言われるような記事を
      書けるように努力いたします!

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