吉本興業と山口組の驚きの関係!吉本せいや林正之助も親密だった!

 

現在放送中の朝ドラ『わろてんか』のヒロインのモデルとなっているのが、

吉本興業の創設者の吉本せいです。

 

彼女は夫の泰三とともに借金をして端席の寄席を手に入れると、

その商才をいかんなく発揮。

 

わずか10年ほどで上方の演芸界を席巻し、その系譜は脈々と現在の

吉本興業へと続いています。

 

ところでせいと泰三夫婦が設立した吉本興業部は多分にブラックな面

あり、このあたりはNHKの朝ドラでは決して描かれないところです。

 

そしてその極めつけともいえるのが、暴力団の山口組との関係です。

 

実は吉本興業部と山口組の関係は根深く、かなり親密だったのです。

 

吉本興業と山口組の驚きの関係!吉本せいや林正之助も親密だった!

 

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まず吉本興業の前身の吉本興業部と山口組が経営する山口組興業部は、

同じ時代に同じ関西の興行界で成長を遂げています。

 

吉本興業部は吉本せいや泰三が寄席をはじめた明治45年(1912年)を起源

とする、日本で最古の芸能プロダクションです(吉本興業部の正式な設立は大正2年)。

 

一方、初代組長の山口春吉が港湾労働者をまとあげて山口組を設立したのは

大正4年(1915年)のこと。

 

春吉の長男の23歳だった大正14年(1925年)に二代目組長を襲名しますが、

 

もっぱら港湾ビジネスは先代の春吉に任せて、山口組興業部を立ち上げて興行界に進出します。

 

(山口登)

 

そして吉本興業部と山口組興業部がはじめて接点を持ったのが、

昭和9年(1934年)のことでした。

 

当時の吉本興業部や吉本せいは松竹の大阪進出に頭を悩ましていました。

 

当初は松竹は東の演劇界、吉本は西の演芸界と住みわけができており、

昭和2年(1927年)には両社の共催で「諸芸名人会」や「全国漫才座長大会」

などの漫才大会などをおこなうほど良好な関係でした。

 

ところが漫才に興業的な価値があることに気づいた松竹は、大会の直後から

吉本所属の芸人たちを引き抜きにかかりました。

 

この際にはせいの実弟の林正之助が松竹の社長の白井松次郎を脅す形で、

松竹に手を引かせていますが、以降は両社の関係はギクシャクする

ばかりか、松竹は本腰を入れて大阪に進出することになります。

 

さらに当時の吉本興業部は上方落語に見切りをつけており、

林正之助は新たな売り物として漫才や安来節をプッシュ。

 

そして姉の吉本せいが松竹に対抗するための演目として注目していたのが、

浪曲でした。

 

その中でも「清水の次郎長」などの演目で一世を風靡していた

二代目広沢虎造は、何としてでも手に入れたい存在。

 

(二代目広沢虎造)

 

そして吉本興業部が虎造の興行権を得るために仲介を頼んだのが、

山口組興業部だったのです。

 

山口登は浅草の浪曲師の元締めである浪速屋金蔵と親しく、

せいは彼を通じて交渉することを画策します。

 

その際にはせいが直々に出馬して一席をもうけて、山口登を接待しています。

 

そんな交渉の甲斐もあって、ほどなくして吉本興業部は虎造の興行権を取得することに成功します。

 

吉本側は5万円という破格の大金を虎造に支払う代わりに、

虎造は吉本の許可なくして劇場や映画に出演できない契約を交わしました。

 

このように二代目広沢虎造を巡っては吉本せいや吉本興業部は

山口登や山口組興業部に大きな「借り」を作ったわけですが、

話はこれだけに留まりませんでした。

 

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前記のように広沢虎造は吉本興業部の半ば専属になりましたが、

その数年後に虎造は無断で下関の暴力団の籠寅組(現在の合田一家)が

製作する映画への出演を勝手に決めてしまいます。

 

吉本側はこれに激怒しましたが、相手が暴力団だけあって、その調停を

再び山口登に依頼します。

 

そして山口登は吉本側の期待に応え籠寅組と交渉し、虎造の映画出演を白紙

に戻すことに成功します。

 

このような過程で吉本せいや吉本興業部の山口登への信頼は深まっていき、

両者はその後も親密な関係を築くことになります。

 

ところが昭和15年(1940年)に山口登は籠寅組の組員に襲撃されて重傷を負います。

 

そしてその時に負った傷がもとで、昭和17年(1942年)に42歳の若さで

逝去しています。

 

この抗争の発端は吉本興業部にありますし、せいや正之助も義理人情に

厚い人物として知られていますから、さらに山口組との関係は深まっていきます。

 

昭和21年(1946年)に田岡一雄が山口組の三代目組長に就任すると、

さらに興行界に進出。

 

(田岡一雄)

 

昭和32年に神戸芸能社を設立すると、美空ひばりと鶴田浩二の二大スターの

興行権を握ります。

 

他にも田端義雄や里見浩太朗、山城新伍、橋幸夫、フランク永井、

マヒナスターズ、三波春夫、坂本九らの並み居るスターたちの関西以西での

興行権も取得しています。

 

時代が興行からテレビへと移り変わっていくにつれ徐々に

山口組の芸能界への影響力は低下していきました。

 

また田岡の代になっても吉本との関係は親密で、昭和43年(1968年)には

林正之助が田岡と組んでレコード会社を乗っ取ろうとして逮捕されるなどしています。

 

このように吉本興業部と山口組の関係は根が深く、特に戦前はかなり親密な関係でした。

 

また吉本がきっかけの抗争で山口組の二代目組長が亡くなってしまうなど、

吉本側にとっては大恩とかなり大きな「借り」もあったようです。

 

かつての興行界は暴力団とは切っても切れない仲などと

言われていましたが、それを如実に示すようなエピソードでした。

 

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