とと姉ちゃん|平塚らいてうの晩年や死!平和運動にまい進した戦後

 

朝ドラ『とと姉ちゃん』では、鞠子が敬服する平塚らいてう

原稿を取りつけることに成功します。

 

しかし鞠子はかつての「青鞜」のような女性を勇気づける文章を求めますが、

らいてうはなんとおしるこの作り方と随筆を提案します。

 

彼女によれば戦争体験を通じて大いに考えも変り、何を差し置いても

「平和」がもっとも優先されるべきとのことでした。

 

かつては女性解放運動のシンボル的な存在でしたし、

与謝野晶子と論戦を展開したりしてその気性の激しさでも知られたらいてうです。

 

リアルのらいてうも戦後は大きく変わったのでしょうか?

 

彼女の晩年や死についても触れていきます。

 

平塚らいてう

 

コンテンツ

平塚らいてうの晩年や死!平和運動にまい進した戦後

 

スポンサードリンク

 

明治44年(1911年)に25歳で雑誌「青鞜」を出版し婦人解放運動を展開した

平塚らいてうも、大正4年(1915年)には青鞜社を離れることになります。

 

事実婚のパートナーだった奥村博史が結核を患ったことと、

前年に誕生した長女曙生の育児などが重なったため、それらに専念するためでした。

 

とは言え、大正7年(1918年)の与謝野晶子との母性保護論争、

翌年に市川房枝などと立ち上げた新婦人協会での活動など、

まだまだ女性解放や自立のために精力的な活動を続けていました。

 

ところが大正10年(1921年)には市川房枝と対立し新婦人協会の運営から

身を引くと、山川菊枝などの社会主義者に激しいバッシングを受けたこともあって、

大正12年(1923年)の同協会の解散後は主に文筆活動に専念することになります。

 

そして戦後まではらいてうは特に目立った活動をしていません

 

昭和20年(1945年)に終戦を迎えると、かつての盟友の市川房枝が

新日本婦人同盟を立ち上げ、らいてうにも参加を求めますがこれに応じませんでした。

 

さらには文部省が立ち上げた婦人教育研究会からも声はかからず、

戦後しばらくの間、らいてうは沈黙を守ります。

 

スポンサードリンク

 

しかし彼女は昭和23年(1948年)に、尾崎行雄や賀川豊彦らが結成した

世界連邦建設同盟(現世界連邦運動協会)に参加して動き出します。

 

この団体は世界連邦構想のもと、世界平和の実現のために国際交流や

様々な奉仕活動をおこなう団体です。

 

戦前は女性の解放や自立を訴えてきたらいてうですが、

戦後は平和運動に転じたのでした。(当時は62歳)

 

その後は精力的に活動をして、再軍備反対婦人委員会の委員長に就任して

日米安保条約に反対したり、原水爆禁止全国協議会などにも参加して、

反戦運動を展開します。

 

その傍ら昭和37年(1962年)に新日本婦人協会をいわさきちひろなどと結成し、

男女平等の実現も求めてきました。

 

またベトナム戦争が勃発すると、昭和41年(1966年)には

80歳にしてベトナム話し合いの会を結成します。

 

このように戦後再び表舞台に現われたらいてうですが、

80代に突入してもアクティブに活動しました。

 

しかし昭和45年(1970年)に胆のう・胆道癌を患い入院生活をはじめると

急激に衰えて、翌年の5月24日に85歳で亡くなります。

 

しかし亡くなる前年の昭和45年にはベトナム母と子保健センターを設立するなど、

死の直前まで精力的に活動していました。

 

戦前の女性の解放や自立から平和反戦運動に転じましたが、

やはりこの人は最後まで歩みを止めませんでした

 

また戦後はかつて袂を分かった市川房枝と活動をともにしたり、

戦前にかなりのバッシングを受けた山川菊枝と座談会をおこなったりと、

らいてうの激しい性格もかなり丸くなったように思われます。

 

ちなみに戦後は日本共産党のパートナーのように思われたらいてうですが、

市川房枝は、「彼女はイデオロギーを持っていませんでした

と語っています。

 

やはり心より平和を望んだ末の行動だったのですね。

 

スポンサードリンク

 

&nbsp

コメントを残す

サブコンテンツ

このページの先頭へ