とと姉ちゃん|すぐに売れなくなる「スタアの装ひ」のその後と史実!

 

朝ドラ『とと姉ちゃん』では、常子は甲東出版を退職して、

妹の鞠子と美子を誘って雑誌作りははじめます。

 

常子たちが作り上げた雑誌「スタアの装ひ」は、庶民が娯楽に飢えていた

時勢も味方して闇市で瞬く間に300部を完売します。

 

いちおう甲東出版で編集を担当していたとは言え、さほど経験もない常子が

いきなり雑誌をヒットさせたというのは凄いですね(300部ですが)

 

勢いづいた常子たちはさらに1000部を増刷して、

さらなる売り上げを目指すことになります。

 

果たして「スタアの装ひ」は売れたのでしょうか?

 

モデルとなった大橋鎭子の「スタイルブック」の史実と併せてご紹介します。

 

スタイルブック2

(復刻版のスタイルブック)

 

コンテンツ

すぐに売れなくなる「スタアの装ひ」のその後と史実!

 

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常子ら小橋三姉妹が意気込んで増刷した「スタアの装ひ」ですが、

その後はさっぱり売れなくなります。

 

なぜこの雑誌がすぐに売れなくなったのかと言いますと、

類似の内容の雑誌が続々と刊行され、しかも後発の雑誌のほうが

安価で紙質もよかったからです。

 

このあたりは大橋鎭子の「スタイルブック」の史実に沿っています。

 

「スタイルブック」は当時としては珍しいファッション専門誌で、

18ページで定価12円(現在の貨幣価値で5000~6000円)だったにも関わらず、

思い切った新聞広告の戦略などもあって売れに売れました。

 

その証拠に鎭子たちの衣装研究所には全国から書留郵便で郵便為替が

続々と送られてきて、あまりの量の多さに京橋郵便局に現金化を断られてしまうほど。

 

※そのため鎭子が以前勤務していた日本興業銀行が引受けた

 

同誌の第1号は昭和21年(1946年)5月に発売していますが、

すぐさま同年の9月に第2号、11月に第3号を発売しました。

 

ところがすぐに「スタイルブック」は売れなくなってしまいます。

 

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「銀座で素人同然の若い女がアメリカ風の服飾雑誌で大当たりした」という噂が

業界内に瞬く間に広がって、類似の内容の雑誌が3、40種も発売されたからです。

 

話しを「スタアの装ひ」に戻しますと、常子は花山伊佐次に助言を求めますが、

花山はテーマ性のない浮世離れした雑誌と酷評します。

 

すなわちこの雑誌に掲載されている洋服は外国人や資産家令嬢などが着るものばかりで、

作り方を教えたとしても材料すら入手することは困難だったからです。

 

その後、花山の助言をもとに製作した同誌の第2号は庶民の心を捉えて

飛ぶように売れるようになります(1000部を完売)。

 

その内容の詳細は不明ですが、恐らく多くの人たちが持っていなかった

洋服用の下着についての内容で、庶民のニーズと心を掴み大ヒットするに

至ったようです。

 

ところがそれにも関わらず花山は色めき立つ常子たちに、

今のままでは売れなくなるとダメ出しをして、

誰にもマネできない雑誌を作るように忠告します。

 

そこで常子が思いついたのが、普段の生活の知恵などをふんだんに盛り込んだ

総合生活誌というわけです。

 

後にこれのアイデアが雑誌「あなたの暮し」につながって、

かつてないほどの大ヒットをもたらすわけです。

 

このあたりの流れは大橋鎭子の史実とは少し異なります。

 

鎭子の場合は「スタイルブック」のヒットはあくまでも創刊号だけで、

それ以降は昭和22年(1947年)10月まで5冊を発売しましたが、

いずれも売れませんでした。

 

これらの失敗を受けて資金的にも追い詰められた鎭子が出したアイデアが、

衣食住のすべてをカバーする総合生活誌「美しい暮しの手帖」です。

 

当時はこのような雑誌は目新しく、生活の知恵やちょっとしたアイデアも満載だった

ことから、主に主婦の心を掴んで大ヒットします。

 

ちなみに花山のモデルの花森安治は、「スタイルブック」の創刊号から

ともに出版に携わっていました。

 

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