まんぷく|カップヌードル(カップラーメン)はこうして完成した!

 

朝ドラ『まんぷく』は、日清食品の創業者の安藤百福とその妻の仁子(まさこ)がモデルとなっている物語。

 

百福は辣腕の実業家でしたが、脱税容疑で巣鴨プリズン送りになったり、信用組合の理事長に就任して経営破綻の責任をとって無一文になったりと、かなり浮き沈みの激しい人生を送っています。

 

しかし48歳の時に世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」を開発して日清食品を立ち上げると、商品は売れに売れて会社も日本を代表する食品加工メーカーに成長します。

 

まさにこの「チキンラーメン」は百福にとって人生のハイライトとなるのですが、もうひとつのハイライトがカップ麺の「カップヌードル」です。

 

日本では既にお馴染みのロングセラー商品ですが、海外でも「カップヌードル」は人気で80か国以上に普及しているとも言われています。

 

以下では、安藤百福が「カップヌードル」を開発するまでをご紹介します。

 

 

カップヌードル(カップラーメン)はこうして完成した!~その①

 

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安藤百福がカップラーメンの着想を得たのは、昭和41年(1966年)のアメリカ視察です。

 

昭和33年(1958年)に売り出された「チキンラーメン」がベストセラーになって、生産が追い付かなったことから昭和35年(1960)年には大阪の高槻市に日産10万食を製造できる大きな工場を建設。

 

昭和38年(1963年)に日清食品は、東証二部と大証二部に上場を果たすなど、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。

 

そんな中当時56歳だった百福は、インスタントラーメンの海外への普及のヒントを得るためにアメリカに視察に向かいました。

 

彼はロサンゼルスでスーパーのチェーンを経営していたホリデーマジック社に向かい、バイヤーたちにチキンラーメンを紹介したのですが、そこで予想外の大きなヒントを得ることになります。

 

当時のアメリカは麺文化はまったく伝わっていなかったことから、箸やどんぶりがありませんでした。

 

そのためバイヤーたちはチキンラーメンを2つに割って紙コップに入れて、フォークで食べ始めたのでした。

 

また食べ終わった紙コップはゴミ箱にポイ捨てしたことから、百福は目から鱗が落ちる体験をしました。

 

他にもカリフォルニアのディズニーランドに行った際にも、コーラやハンバーガーを楽しむ若者たちを見て衝撃を受けています。

 

アメリカ人は箸やどんぶりを使わないことをはじめて知りましたし、こんな気軽に食事を楽しめることを知って、チキンラーメンより簡易性の高い「カップラーメン」の構想が生まれたのです。

 

カップヌードル(カップラーメン)はこうして完成した!~その②

 

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そしてその3年後の昭和44年(1969年)にカップラーメンの本格的な開発をはじめて、社内にもプロジェクトチームを設立します。

 

最初の壁になったのはカップラーメンの「ふた」で、通気性がなく、それでいてピタッとカップに密着する素材がなかなか見つかりませんでした。

 

しかしこの問題を解決したのは、アメリカからの帰りに乗った飛行機の機内でした。

 

客室乗務員が渡してくれたマカダミアナッツの容器のふたは紙とアルミ箔の貼り合わせになっており、容器にピタッと密着していたのです。

 

さらにこのふたには接着剤は使用されておらず、150℃の高温で接着する「熱蒸着」という技術も使用されていたのですが、この技術も採用されました。

 

なおこの時のマカデミアナッツの容器は、現在でもカップヌードルミュージアム大阪池田に展示されています。

 

そしてカップの大きさや形状が決まっていきましたが、次なる問題はカップに麺をどう収めるかということです。

 

麺が大きすぎてもカップに入りませんし、小さすぎると輸送中にカップに当たって割れてしまいます。

 

この点については百福自身の「閃き」が大いにモノをいいました。

 

彼は逆転の発想で、麺をカップに入れるのではなく、カップを麺にかぶせることを思いつき、麺をカップの中間に固定することに辿り着きます。

 

これは「麺の中間保持」という技術で特許として登録されており、現在でも多くのカップラーメンに採用されているものです。

 

こうして昭和46年(1971年)に「カップヌードル」は完成するのですが、着想から5年の歳月がかかっています。

 

 

カップヌードル(カップラーメン)はこうして完成した!~その③

 

そしてその年の918日に東京の伊勢丹百貨店で販売を開始したのですが、当初の評判はさんざんでした。

 

 

というのも当時は袋めんが25円の時代にカップヌードルは100円もしたことや、立って食べたりすることも日本人の食文化に反するとされたからです。

 

ところがその翌年に銀座の歩行者天国で試食販売を開始すると、若者たちにはウケがよく、1日で2万食が完売しています。

 

 

そのため百福も「食は時代とともに変わる」と感じ、カップヌードルに手応えも感じていました。

 

そしてカップヌードルの普及に拍車をかけた大事件が、昭和47年(1972年)2月の連合赤軍によるあさま山荘事件です。

 

この事件は同年の219日に連合赤軍のメンバー5人があさま山山荘に人質をとって立てこもり、死者3人を出して犯人は全員逮捕されています。

 

しかし立てこもりは10日間に及んび、これは日本の事件史上最長でした。

 

世間もこの事件に注目していたことから、連日テレビで報道されていたのですが、機動隊の隊員が雪の中でカップヌードルを食べる姿が映し出されました。

 

(こんなにも大写しになっていた)

 

機動隊には近所の民家などからおにぎりが炊き出されていましたが、気温が氷点下だったこともあって食べられませんでした。

 

そのため温かいカップヌードルが支給されて、連日のようにそれを機動隊員たちが食べる様子がテレビに映されたのです。

 

当時のカップヌードルは知名度や評価が低く一般的にはほとんど流通していませんでしたが、自衛隊や警視庁は非常食としてこれを購入してストックしていたのです。

 

これによって県警や報道機関からもカップヌードルの注文が相次いで、テレビを見ていた多くの視聴者もカップヌードルに注目することになります。

 

その日以来カップヌードルは売れに売れ、「チキンラーメン」以来の大ヒットとなったのです。

 

しかもあさま山荘事件の半年後には、日清食品は東京、大阪、名古屋の証券取引所で一部上場を果たしていますから、そのバカ売れぶりも想像がつきますよね♪

 

「カップヌードル」の完成から普及までをザックリとまとめてみました。

 

ドラマでも必ずやこのエピソードは登場しますので、楽しむ上の一助となれば幸いです。

 

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