まんぷく|安藤百福の泉大津の塩作り塩田の実話が驚き!ドラマとの違い

 

朝ドラ『まんぷく』では、萬平はハンコ屋に引き続いて泉大津製塩事業を立ち上げることになります。

 

たちばな塩業という会社を設立するのですが、終戦直後の塩不足もあって事業は軌道に乗り、後の栄養食品の開発にもつながっていくことになります。

 

このように物語上は泉大津での塩づくりは非常に重要なものとなりますが、他の記事でもご紹介しましたがモデルとなっている安藤百福も実際に泉大津で製塩事業をおこなっていました。

 

しかしその実話に関しましては、いささかドラマと異なります。

 

今回はこのあたりを詳述していきます。

 

 

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安藤百福の泉大津の塩田塩作りの実話が驚き!ドラマとの違い

 

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安藤百福は終戦直後の昭和21年(1946年)ごろから、当時は「底値」であった大阪の土地や建物を買い漁って大きな利益を手にしています。

 

それと並行して戦前からおこなっていた事業(軍用機の部品工場など)や吹田市千里山にあった自宅などを整理して、泉大津に移住しています。

 

同地に居を構えた百福ですが、近くの海岸に旧造兵廠(日本軍の武器製造工場)の広大な跡地が放置されていることを知ります。

 

当時はその跡地は大阪鉄道管理局の管轄となっていましたが、敷地は20万平方メートルもあって、建物や倉庫も空襲を免れて残っていました。

 

百福はこんな物件を放置しておく手はないと考えて、粘り強く担当部署と交渉を重ねた結果、土地の無償貸与や建物や資材の払い下げを受けることに成功します。

 

敷地には機械のスクラップや錆びた鋼材などが野積みにされて、海岸には銃弾の薬きょうも散乱していましたが、倉庫内には綿実油や砂糖が保管されていました。

 

また工場内には薄い鉄板が数えきれないほど保管されており、これによって「塩づくり」をひらめくことになります。

 

彼に塩づくりの経験はありませんでしたが、疎開先の兵庫県上郡は塩どころの赤穂に近かったことから、何度か製塩を見学したことがあったのです。

 

このように百福の製塩事業は当初から構想などがあったわけではなく、単なる思いつきによってはじめられるのです。

 

また当時の大阪の街には仕事にあぶれた若者たちや戦災孤児で溢れかえっていました。

 

百福は親しかった運輸省鉄道局長官の佐藤栄作(後の総理大臣)と会うと、いつもこの話題になったといいます。

 

そこで百福はこの問題に一役買うために大阪の街で仕事のない若者たちを集めて、泉大津の塩田で働かせることにしました。

 

またドラマの香田タカのモデルの有元冨巨代も一緒に塩田に来て、安藤仁子やその母の須磨とともに若者たちの面倒を見ています。

 

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製塩方法はまったくの自己流で、天日で熱した鉄板の上に海水を流し込んで、それを繰り返しおこなうことで凝縮液を作ります。

 

そしてその凝縮液を大釜で煮詰めて塩をつくるという普通の塩田とは異なるやり方でしたが、ちゃんと塩は作れました。

 

とは言え天気の悪い日はできませんし、鉄板の錆の影響で塩には黄色や茶色っぽい色もついていました。

 

しかし当時は深刻な塩不足でしたから、泉大津の市民たちには大変喜ばれたそうです。

 

(当時の百福と仁子)

 

また製塩は明治時代から国の専売事業とされて勝手に作ることは許されなかったのですが、太平洋戦争の影響で塩が不足すると昭和17年(1942年)に「自家用塩制度」という法律が施行されて限定的に民間による塩の生産が認められたため、百福の塩づくりは違法ではありませんでした。

 

※昭和24年(1949年)に日本専売公社が設立されて再び塩は専売制となる

 

さらに百福は漁船を2隻購入して、従業員であった若者たちにイワシ漁をさせて、干物なども作っています。

 

それらに加えて彼は塩田をはじめた翌年の昭和22年(1947年)には、名古屋に「中華交通技術専門学院」という専門学校を設立しています。

 

これは自動車の整備や鉄道建設の技術などを学べる学校で、製塩事業と同じく「仕事のない若者に技術を身につけさせたい」という思いからでした。

 

しかもこの学校は授業料はもちろん、寮費や食費もすべて無料で、参考書を買う費用さえ支給されたと言いますから驚きです。

 

そんなことから定員60名の学生はすぐに集まりましたが、1000万円の建設・運営費はすべて百福のポケットマネーでした(現在の貨幣価値で何と10~15億円程度)。

 

もっともこの学校はあまりに大盤振る舞いしたために、昭和26年(1951年)には資金繰りに窮して閉校してしまっています。

 

また塩田事業に関しましても決して採算性の高いものではなく、従業員の若者たちに小遣いも渡していたことから、すべては百福の「持ち出し」で成り立っていたのです。

 

前述したとおり百福は終戦直後の昭和21年に大阪の不動産を安値で買い漁って巨万の利益を得ていますが、彼は常に「世の中の役に立ちたい」という思いがあったことから、かなりの抵抗感があったようです。

 

そのため塩田事業や専門学校で、それらの利益を社会に還元しようとしたのかもしれません。

 

いずれにしてもドラマの萬平の製塩事業と百福のそれとでは、かなり根本的な性質の異なるものでした。

 

なお昭和23年(1948年)の12月に百福は塩田の従業員に渡していた小遣いが「給与」とみなされたことから脱税容疑で逮捕されて、巣鴨プリズン送りとなっています。

 

その際に泉大津の塩田施設はすべて没収されて、あっけない幕切れを迎えています。

 

長々となりましたが、ドラマを楽しむ上での一助となれば幸いです♪

 

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