まんぷく|たちばな塩業のモデルは?成功するの?泉大津の塩田事業
朝ドラ『まんぷく』では、終戦後に萬平(長谷川博己)は泉大津にたちばな製塩を立ち上げて、塩田を作り製塩事業に乗り出します。
世は物資不足で塩が足りず、そこに着目して事業を起こすことになります。
また塩田や製塩事業には男手が必要なことから、岡幸助(中尾明慶)ら14人の従業員を雇うことになります。
そうなると当然まとまった資金が必要になりますが、福子(安藤サクラ)の親友の池上ハナが泉大津の地主と結婚していたことから、資金の融通にも成功することになります。
そんなたちばな塩業のモデルやその後などをご紹介していきます。
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たちばな塩業のモデルは?成功するの?泉大津の塩田事業
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たちばな塩業のモデルとなっているのは、昭和21年(1946年)から萬平のモデルの安藤百福が大阪の泉大津ではじめた製塩事業です(会社名などは不明)。
周知の通り第二次世界大戦末期に大阪の街は大阪大空襲などによって、焦土と化しました。
その頃、百福と仁子の夫妻は兵庫県の西部の上郡町に疎開していましたが、終戦後に大阪に戻ってみると、経営していた部品工場や自宅、事務所などすべて焼けてしまっていました。
街は食糧不足で飢餓状態でしたし、復員兵や疎開先の帰省者などで人が溢れて、仕事も十分にありませんでした。
当時の百福は36歳でしたが、そんな大阪の街を見て、「食」に関する事業を起こすことを決意しています。
幸い財産は疎開先に持参していたことや後に焼けてしまった工場などの火災保険金も入ってきたことから、当時の百福は資産に余裕もありました。
そして泉大津に土地を購入して、塩田事業をはじめました。
百福はまったく製塩などの経験がありませんでしたが、疎開先だった上郡町は赤穂の塩田が近かったことからそれをじっくり観察した経験がありました。
失業中の若者を大量に雇って鉄板の上に海水を流し込み、天日で水分を飛ばす作業を繰り返しおこなって、最後にたまった濃縮液を大釜で煮詰めると「塩」ができました。
まさに自己流の製塩方法でしたが、天日を用いることから雨の日などは作業できない不都合もありました。
とは言え当時の塩は国の専売品ではなかったので自由に売ることができて、近所や泉大津市民からは大変感謝されたそうです(深刻な塩不足だったため)
また漁船を2隻購入して、若者たちと沖合でイワシ漁をしたり、仁子が作った自家製のどぶろくで宴会を催したりと、この頃の百福はかなり楽しんだようです。
若者たちの世話は仁子とその母親の須磨がおこなって、仁子の次姉・澪子(香田克子のモデル)の長女・冨巨代(ふくよ・香田タカのモデル)もやってきて、これを手伝っています。
とは言え、出来上がった塩は鉄板の錆の影響で赤茶けており高値では売れず、若者たちにも小遣いを支払っていたことから、この製塩事業は当初から採算性などはありませんでした。
そのあたりは百福も百も承知で、もともとの狙いは失業中の若者たちに仕事を与えることで、後に「金儲けをする気はなかった。何か世の中を明るくする仕事はないかと、そればかり考えていた」と語っています。
ところがこの製塩事業も昭和23年(1948年)12月に呆気ない幕切れを迎えます。
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百福が脱税容疑で逮捕されたからです。
塩田で働く若者たちへの小遣いが「給料」とみなされて、所得税などを税務署に収めていなかったことから、脱税で逮捕されたのです。
当時のGHQは徴税の強化を政府に要請しており、その反動で日本国民の間では反税運動もおこっていました。
どうやら百福は「見せしめ」として逮捕されたようで、満足な裁判も受けることができずに、わずか1週間でGHQ軍政部に4年間の重労働という判決を受けて、巣鴨プリズンに収監されてしまいます。
百福の逮捕とともに塩田があった泉大津の土地も没収されてしまい、塩田事業は頓挫してしまいました。
ドラマでは萬平は実業家として再起を図るためにたちばな製塩を立ち上げますが、リアルは多分に事業というよりも実質的には若者支援のボランティアのようなものでした。
またドラマでは製塩事業は一定の成功を収めるようですが、やはり萬平もGHQのMPに逮捕されてしまう模様です。
とは言え、萬平や福子たちの製塩業での奮闘も楽しみですね♪
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