わろてんか|隼也の年齢や北村笑店での役割がモデルの吉本穎右と違いすぎ

 

朝ドラ『わろてんか』では、藤吉とてんの一人息子の隼也がアメリカ留学を経て

北村笑店に入社することになります。

 

彼はアメリカで最新のショービジネスを学んで来ており、今後の活躍も期待されますが、

まずは丁稚のような仕事からキャリアをスタートさせるようです。

 

別の記事でもご紹介しましたが、隼也のモデルとなっているのは吉本せいの次男の

穎右(えいすけ)です。

 

ところが隼也はモデルの穎右と年齢がかけ離れているどころか、その仕事ぶりや役割も

大幅に異なっています

 

 

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隼也の年齢や北村笑店での役割がモデルの吉本穎右と違いすぎ

 

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まずおさらいになりますが、隼也が生まれたのは大正3年(1914年)のことでした。

 

当時はようやく北村笑店の経営が軌道に乗って、藤吉の母の琢子がアメリカに旅立ってから

2年後のことでした。

 

そして隼也がアメリカ留学から戻って来て北村笑店に入社するのが昭和9年(1934年)のこと

ですから、彼の年齢は20歳ということになります。

 

ところがモデルとなっている吉本穎右が生まれたのは大正12年(1923年)のことで、

ドラマの隼也が誕生してから9年後のことです。

 

そのため昭和9年の時点ではまだ13歳で、とうてい家業を手伝うことはできません。

 

またどうやらドラマの隼也のようにアメリカ留学もしていないようです。

 

彼は早稲田大学に進学していますが、最終的には大学を中退して吉本興業に入社しています。

 

ただしそれは終戦後の昭和20年(1945年)ごろのことです。

 

しかも当時は大阪大空襲などで吉本は寄席の大半を失っており、極度の物資不足で復興も

ままなりませんでした。

 

そのため実質的な経営者だった林正之助は演芸界からの撤退を決定しており、その後は

進駐軍向けのキャバレーなどの経営で糊口を凌ぐことになります。

 

このような時期に穎右が入社しているので、ドラマの隼也のような寄席やショービジネスには

関わっていないのです。

 

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しかも穎右はその後に肺結核を発症して、昭和22年(1947年)には療養生活に入りますから、

吉本興業で仕事をしたのはわずか2年足らずです。

 

なのでドラマの隼也の活躍はモデルの穎右がおこなったことではありません。

 

アメリカのショービジネスを勉強したり、後にミュージカルのマーチン・ショーを導入すること

になりますが、このあたりは吉本せいのもうひとりの弟の林弘高の功績です。

 

弘高は長らく吉本東京を率いた功績者ですが、ドラマではややこしくなるので割愛し、

その役割の一部を隼也がおこなうことにしたようです。

 

そのために誕生も前倒しにして、モデルの吉本穎右よりも9歳も年上という設定になったのでしょう。

 

しかし一部とはいえ林弘高の役割を果たす以上、今後は隼也もなかなか重要な役割を担うことは

確実視されます。

 

彼の奮闘にも注目ですね♪

 

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