わろてんか|万丈目が漫才作家に!モデルは秋田実だった!

 

朝ドラ『わろてんか』では、病床の藤吉に代わって北村笑店を切り盛りするてんは、

万丈目漫才作家として起用することになります。

 

きっかけは再びコンビを結成したキースとアサリです。

 

彼らは社会性のあるネタ作りを目指しますが、なかなかうまくいきません。

 

そのためてんは新聞への小ばなしの連載で文才を発揮した万丈目に、彼らのネタづくりを

依頼することになります。

 

どうやら後面の万丈目は夫婦漫才のほか、今後は漫才作家としての顔も持つようですが、

このあたりは戦前の吉本興業部を語るに欠かせない秋田実がモデルとなっていました。

 

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万丈目が漫才作家に!モデルは秋田実だった!

 

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秋田実(あきた みのる)

 

 

1905715日~19771027

 

秋田実は東京帝国大学を卒業したインテリで、戦前から戦後にかけて漫才作家として活躍し、

「上方漫才の父」と呼ばれる人物です。

 

秋田は帝大時代から左翼系の小説を書いたり、出版社で編集をしていました。

 

吉本興業部に入社したのは、昭和9年(1934年)のことです。

 

大阪朝日新聞の文芸部員だった白石凡が横山エンタツと花菱アチャコのしゃべくり漫才を見て、

彼らによい漫才作家が付けばさらに面白くなると考えて、秋田をエンタツに引き合わせたことが

きっかけです。

 

当時の吉本興業部は文芸部を設置して東京帝国大学や京都帝国大学のインテリたちを

次々に採用し、機関紙や漫才のネタを作らせていました。

 

秋田は昭和10年(1935年)から頭角を現して、エンタツ・アチャコのコンビのネタを中心に、

多くの作品を執筆しています。

 

かつては「色物」と蔑まれた漫才でしたが、秋田らのインテリたちが制作に参加することで、

ネタも洗練されていき、現在の漫才に通じる大人から子供まで楽しめるスマートな作品に

変貌していきました。

 

当時は漫才ブームが過熱している最中でしたが、ブームを仕掛けた林正之助や所属の漫才師

だけではなく、秋田たち漫才作家の功績も非常に大きいものでした。

 

様々な秀作を作り上げた秋田でしたが、昭和16年(1941年)に松竹系の新興キネマに引き抜かれ

ており、吉本に在籍したのはわずか7年間でした。

 

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戦後は漫才師を育成する研究会の「MZ研進会」を立ち上げて、多くの人材を育成します。

 

後にスターとなるミヤコ蝶々や夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケなどは出身者です。

 

また阪急電鉄の創業者の小林一三と組んで、演劇集団の「宝塚新芸座」を立ち上げたこともありました。

 

さらに昭和50年(1975年)には若手漫才師の勉強会である「笑の会」を主宰して、

そこからオール阪神・巨人やB&B、大平サブロー・シロー、宮川大助・花子などの

売れっ子を輩出しています。

 

戦後は漫才作家の枠にとらわれずに、多くの人材を発掘・育成した秋田でしたが、そ

の手掛けたメンバーの名前を見れば、その偉大なる功績も明らかでしょう。

 

秋田は前述のようにエンタツ・アチャコのしゃべくり漫才に大きく貢献していることから、

ドラマのキャストなども気になっていましたが、まさかの万丈目がその役割を果たすことになります。

 

リアルの秋田は吉本を短期間で離れている点がちょっと心配ですが、万丈目の漫才作家としての

活躍にも注目です♪

 

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