わろてんか|漫才ブームはどのように起こった?まさに笑いの新時代

 

朝ドラ『わろてんか』では、長らく寄席の目玉の演目であった落語にとって代わって

漫才が台頭することになります。

 

北村笑店でも伝統的な落語を重視する藤吉と、漫才を推す風太が対立することになります。

 

ふたりの対立は別として、このあたりは大正末期から昭和初期にかけての上方落語の凋落

と漫才の台頭の史実が下敷きになっています。

 

当時の吉本興業部の林正之助が漫才ブームを仕掛けてそれが大当たりとなり、

以降は漫才が寄席の興行の中心になっていきます。

 

このあたりのエピソードをご紹介します。

 

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漫才ブームはどのように起こった?まさに笑いの新時代

 

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漫才ブームを仕掛けた林正之助が、そもそも漫才に注目しはじめたのが大正12

1923年)ごろです。

 

当時ブームを巻き起こしていた安来節の合間をつなぐ芸としての扱いでしたが、

漫才が予想以上に客にウケているのに気づきます。

 

そのため正之助は大正末期にかけて漫才師の発掘に奔走して、寄席にも積極的にこれを導入。

 

大正15年(1926年)には花菱アチャコ(アサリのモデル)の引き抜きにも成功し、

この頃には吉本興業部所属の漫才コンビは23組に増えていました。

 

そして正之助が勝負に出たのは、昭和2年(1927年)です。

 

庶民の間で漫才人気が上がっていると判断した正之助は、この年の8月に

大劇場での興行に打って出ました。

 

正之助の企画で松竹と提携し、松竹が1500席を誇る道頓堀の弁天座を提供し、

吉本が芸人を出演させる「諸芸名人会」という漫才大会を開催しました。

 

(当時の弁天座)

 

当初は漫才のみで大劇場に客を呼べるか? どこまで漫才が世間に認知されているか?

など不安材料も多々ありました。

 

正之助や吉本にとっても大博打の企画でしたが、ふたを開けてみればこの大会は大成功でした。

 

会場となった弁天座は超満員で、爆笑に次ぐ爆笑だったとのこと。

 

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これに気をよくした吉本と松竹は、同年12月に同じく弁天座で「全国漫才座長大会」を

開催しますが、こちらも大成功でした。

 

これらの興行の成功によって、正之助は来る漫才ブームを確信したと言われています。

 

正之助はさらに漫才師のスカウトに精を出し、翌年の昭和3年(1928年)には、

後にスターとなるミスワカナと玉松一郎のコンビを発掘。

 

この頃になると、漫才人気はさらに上昇して、落語よりも明らかに客入りがよくなっています。

 

昭和4年(1929年)の落語が中心の南地花月は1日あたりの平均入場者は168人だったのに

対し、漫才が中心だった第一愛進館は1448人も動員しています。

 

木戸銭の違い(南地花月は第一愛進館のおよそ6倍)はあれど、もはや漫才人気は歴然といった数の差ですよね?

 

そして昭和5年(1930年)には、正之助は横山エンタツと花菱アチャコのコンビを

世に送り出します。

 

スーツ姿で「キミ」や「ボク」といった言葉遣いのモダンなコンビは、古典的な漫才を

一新した「しゃべくり漫才」で人気者となります。

 

またこの年には正之助は千日前の南陽館を漫才の専門館にし、10銭という安価な木戸銭に

設定したことから、10銭漫才」は大盛況となります。

 

こうして漫才は一大ブームとなって、以降は落語を凌ぐ演目になっていきます。

 

また「しゃべくり漫才」の登場で、現在の漫才に通じるスタイルも確立され、

多くのコンビがこれを踏襲することになります。

 

正之助が漫才に目を付けたのが大正12年でしたから、およそ8年越しでブームとなります。

 

まさにこのあたりは彼の執念や熱意も感じられるところですね♪

 

近代漫才の生みの親と評価される正之助ですが、そんな人物がモデルとなっている

ドラマの風太の活躍にも期待ですね!

 

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